合原 猪三郎(ごうはら いさぶろう、文政10年2月24日1827年3月21日)- 明治34年(1901年4月1日)は、江戸幕末武士幕臣

人物 編集

外交面で活躍し、与力見習から大目付に異例の昇進を遂げた。官位は左衛門尉伊勢守。は義適(よしまさ)、義直。号は櫟堂。

略歴 編集

浦賀与力合原雄左衛門の次男として、浦賀で生まれる。兄は長崎海軍伝習所三期生で浦賀奉行所の与力、合原操蔵(義訓)。

嘉永2年(1849年)、浦賀奉行所与力見習となり、ペリー来航時に中島三郎助香山栄左衛門らと共に応接係を務めている。

安政元年(1854年)、下田奉行与力見習に転任。安政2年(1855年)、同支配調役並出役となり、ハリスとの交渉に当たった。安政5年(1858年)、同支配調役並(切米50俵)を経て、外国奉行支配調役(150俵高)となり、御目見以上となる。

万延元年(1860年)、神奈川奉行支配調役(150俵高)に転任。同支配組頭(150俵高)を経て、文久3年7月21日(1863年9月3日)、神奈川奉行並(1000石高)に就任、家禄100俵に加増された。このとき井土ヶ谷事件が起こり、その捜査に当たっている。同年10月22日(12月2日)、二丸留守居(700俵高)に転任した。

元治元年7月25日(1864年8月26日)目付に進み、同年7月28日(8月29日)、諸大夫(左衛門尉)となった。同時にイギリスへの使者の辞令を受けているが、同年8月3日(9月3日)に免じられている。慶応元年(1865年)、長崎奉行並(1000石高)を経て、歩兵頭(2000石高)となった。慶応2年9月27日(1866年11月4日)、外国奉行(2000石高)となり、イギリス在留を命じられるが、同年12月15日(1867年1月20日)辞任している。慶応3年(1867年)に陸軍奉行並(3000石高)、慶応4年(1868年)に大目付と高官を歴任した。

維新後 編集

明治維新後は新政府への出仕を断り、東京本郷竜岡町(東京都文京区湯島)に隠棲した。明治34年病没。墓所は染井墓地

参考文献 編集

  • 小川 恭一『寛政譜以降旗本家百科事典』