吉次 茂七郎(よしつぐ もしちろう、生年不詳 - 1923年1月19日[1])は、日本土木技術者、鉄道技術者。

経歴・人物 編集

 
故吉次茂七郎君之碑

福岡県に生まれる[2]。1911年(明治44年)福岡県立中学修猷館[3]を経て、1914年(大正3年)3月名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)を卒業[2]

台湾総督府鉄道部に就職するが、ほどなくして陸軍に志願し、砲兵少尉となる[2]

除隊後、命令により台湾総督府鉄道部に復職。宜蘭線が着工されるや[2]、1921年(大正10年)に工事現場監督者に抜擢される[4]三貂嶺隧道草嶺隧道の工事監督に従事するが、その工事が難航を極め、マラリアに感染し、工事途中で1923年(大正12年)1月19日に死去[1]

草嶺隧道完成の 1924年(大正13年)10月9日、工事関係者によって、その近くに吉次の功績を称える記念碑「故吉次茂七郎君之碑」が建立されており、日本の統治下では毎年慰霊祭が行われていたと伝えられている。戦後、台湾における日本人に関わる、この種の記念碑や顕彰碑の類はほとんど破壊や撤去がなされたが、吉次の碑は地元住民の強い反対により残された[2]

草嶺隧道は、1985年(昭和60年)に新しいトンネルが建設され、一時廃道になったが、2008年(平成20年)にサイクリングロード「旧草嶺隧道自転車道」として再び使用されるようになった[4]

出典 編集