吉良義定

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将

吉良 義定(きら よしさだ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将徳川家の家臣。

 
吉良義定
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 永禄7年(1564年[1]
死没 寛永4年9月15日1627年10月23日
別名 三郎(通称)、上野介
戒名 興山
墓所 実相寺、万昌院
主君 徳川家康
氏族 清和源氏足利氏吉良氏
父母 父:吉良義安、母:俊継尼松平清康の娘)
兄弟 義定、女(今川範以室)
正室:今川氏真の女
義弥荒川定安一色定堅、女
テンプレートを表示

経歴

編集

吉良義安の子。母は松平清康(家康の祖父)の娘であり、徳川家康とは従兄弟にあたる。妻は今川氏真の娘。子女に吉良義弥荒川定安一色定堅がある。

嫡男の吉良義弥が関ヶ原の戦いに従軍し、戦後三河国吉良に3000石の所領を与えられていることから、それまでには義弥に家督を譲ったと見られる。

 
西尾市華蔵寺の吉良義定の墓

寛永4年(1627年)9月15日、三河国にて死去。享年64。西尾実相寺に葬られた。のちに、吉良家の菩提寺となった江戸市谷万昌院に改葬された。

脚注

編集
  1. ^ 『寛政重修諸家譜』記載の享年より逆算

参考文献

編集

外部リンク

編集
先代
吉良義安
吉良家当主
吉良義定
次代
吉良義弥