メインメニューを開く

周皇后(しゅうこうごう、万暦39年3月28日1611年5月10日) - 崇禎17年3月18日1644年4月24日))は、崇禎帝の皇后。孝節烈皇后(こうせつれつこうごう)、孝敬端皇后(こうけいたんこうごう)、あるいは荘烈愍皇后(そうれつびんこうごう)とされた。

目次

経歴編集

蘇州の人。四柱推命士の周奎とその後妻の卜氏[1]の娘として生まれた。天啓6年(1626年)、美貌をもって選抜されて信王朱由検(のちの崇禎帝)の邸に入り、信王妃(正室)となった。崇禎帝が即位すると、皇后に立てられた。白無垢の服を好み、書画をよくし、医書を誦した。父の周奎は伯爵(嘉定伯)に封ぜられた。

北京李自成の軍勢が迫っていた頃、周氏は崇禎帝に「私たちには南方にもう一棟の家屋があります」と繰り返し説き、南京への遷都を勧めたが、崇禎帝は聞き入れなかった。崇禎17年(1644年)3月19日、北京は李自成軍によって陥落した。前夜、崇禎帝は「大勢は既に去った。汝は天下の母であり、死すべきだ」と告げた。周氏は痛哭して「私は18年来、陛下に奉仕しました。私の話など陛下のお耳には一言も入りません。今日、陛下と一緒に殉国し、死んでも恨みはありません。」と応じ、息子らと最後の別れをして、自ら縊死した。

李自成の命令で、皇貴妃田秀英の墓が開かれ、崇禎帝と周氏が合葬された。南明において孝節貞粛淵恭荘毅奉天靖聖烈皇后諡号が贈られたが、一方ででは孝敬貞烈慈恵荘敏承天配聖端皇后、のち崇禎帝に合わせて荘烈愍皇后の諡号が贈られた。

子女編集

伝記資料編集

  • 明史
  • 『崇禎長編』
  • 『崇禎宮詞註』

脚注編集

  1. ^ あるいは丁氏。