唐 仁祖(とう じんそ、1249年 - 1301年)は、モンゴル帝国および大元ウルスに仕えたウイグル人

概要 編集

唐仁祖の祖父は唐古直という名前で、子孫はこの名前に因んで「唐」という漢風の姓を名乗るようになったという。1211年天山ウイグル王国がモンゴル帝国に服属した時、唐古直は17歳にしてこれに仕え、チンギス・カンによって末子のトルイの配下に入れられた。トルイは当初唐古直を重用しなかったが、トルイの妻のソルコクタニ・ベキは唐古直の才を見いだしてジャルグチに任命した。その息子の唐驥はトルイの次男のクビライが即位するとその息子のチンキムビチクチとされ、次いでダルガチに昇格となった[1]

唐驥の息子の唐仁祖は幼い頃から聡明で、父が早世した後は母から書を学び、諸国語に通じるようになった。クビライの即位後、唐仁祖はクビライに質子(トルカク)として仕えるようになるが、唐仁祖を初めて見たクビライは「唐古直の孫であるならば、聡明なことは疑いない」と語ったという。その後は中書省に入って翰林直学士となり、やがて参議尚書省事となった[2]

この頃、朝廷ではサンガが権勢を振るっていたが、唐仁祖はたびたびサンガの意向に逆らったため、周囲の者から身の危険を心配されたという[3]

クビライが亡くなって孫のテムルが即位すると、テムルはまず生母のココジンを皇太后に追封し、唐仁祖にその冊文を作るよう命じた。その後も唐仁祖はしばらく健在であったが、1301年大徳5年)に53歳で亡くなった。死後は息子の唐恕が後を継いだ[4]

脚注 編集

  1. ^ 『元史』巻134列伝21唐仁祖伝,「唐仁祖字寿卿、畏兀人。祖曰唐古直、子孫因以唐為氏。初、畏兀挙国効順、唐古直時年十七、給事太祖、因属之睿宗、曰『唐古直可任大事』。睿宗未及用、荘聖皇后擢為札魯火赤。父驥、豪爽好射猟。世祖即位、命驥為裕宗潜邸必闍赤、陞達魯花赤」
  2. ^ 『元史』巻134列伝21唐仁祖伝,「仁祖少穎悟、父没、母教之読書、通諸方語言、尤邃音律。中統初、詔諸貴冑為質、帝親閲之、見仁祖曰『是唐古直孫邪。聡明無疑也』。俾習国字。至元六年、中書省選充蒙古掾。十六年、録囚平陽、平反冤滞免死者凡十七人。十八年、授翰林直学士。時中書奏真定・保定両路銭穀逋負、屡歳不決、遣仁祖往閲其牘、皆中統旧案、亟還奏罷之。転工部侍郎、除中書右司郎中、拜参議尚書省事」
  3. ^ 『元史』巻134列伝21唐仁祖伝,「時丞相桑哥秉政、威焔方熾、仁祖論議不回、屡忤桑哥、人皆危之、仁祖自若也。遷工部尚書、桑哥以曹務煩劇特重困之、仁祖処之甚安。尋出使雲中、桑哥考工部織課稍緩、怒曰『誤国家歳用』。亟遣駅騎追還、就見桑哥相府中、遽命直吏拘往督工、且促其期、曰『違期必致汝於法』。左右皆為之懼。仁祖退、召諸署長従容諭之曰『丞相怒在我、不在爾也。汝等勿懼、宜力加勉』。衆皆感激、晝夜倍其功、期未及而辦、乃罷。已而桑哥繋獄、有旨命仁祖往籍其家。明日桑哥以左右之援得釈、衆見駭然、目仁祖曰『怒虎之威、可再犯邪』。悉踰垣以竄、仁祖独不為之動、桑哥竟敗」
  4. ^ 『元史』巻134列伝21唐仁祖伝,「二十八年、除翰林学士承旨・中奉大夫。遼陽饑、奉旨偕近侍速哥・左丞忻都往賑、忻都欲如戸籍口数大小給之、仁祖曰『不可、昔籍之小口、今已大矣、可偕以大口給之』。忻都曰『若要善名、而陥我于悪邪』。仁祖笑曰『吾二人善悪、衆已的知、豈至是而始要名哉!我知為国恤民而已、何恤爾言』。卒以大口給之。俄除通奉大夫・将作院使。成宗即位、尊大母元妃為皇太后、以仁祖善書、特勅書冊文。復奉詔督工織絲像世祖御容、越三年告成。大徳五年、再授翰林学士承旨・資善大夫・知制誥兼修国史、以疾卒、年五十三。贈栄禄大夫・平章政事、追封洹国公、諡文貞。子恕、初授奉訓大夫・寿武庫提点。至大中、遷翰林待制、後累遷至亜中大夫・侍儀使」

参考文献 編集