因幡志
『因幡志』(『稲羽志』、『因幡誌[注 1]』、いなばし[1])は因幡国(鳥取県東部)に関する江戸時代中期に編纂された地誌史料である[2]。成立時期は一応寛政7年(1795年)とされているが[1][3]、その時点では実際には世に出されず、その後も加筆が行われた[3]。『因幡民談記』とならび、近世の因幡国に関する代表的な地誌とされている[3][2]。
作者
編集『因幡志』の編者は阿陪恭庵(あべきょうあん、享保19年(1734年) - 文化5年(1808年)4月18日[4][5])という人物である[1]。「恭庵」は雅号で、本名は阿陪惟親(あべこれちか[4])[5]。
医学を志して、米子の医師、吉岡玄昌(吉岡恕翁)・吉岡義顕(吉岡仁庵)という父子[注 2]の下で学び、鳥取藩の目付・学館奉行である河田東岡からは儒学や朱子学を学んだ。その後、京都に出て学問を修めつつ、文学修辞にも傾倒したという。鳥取に戻ると天明6年(1786年)に鳥取藩の近習医となった[5]。
阿陪恭庵は若いうちから、藩の典医だった小泉友賢(1622年 - 1691年)による『因幡民談記(稲場民談記)』(1688年頃成立)の増補をめざしていた[1][5]。『因幡志』の草稿には、「続稲場民談記」や「増補民談記」の仮題が記されている[3]。
恭庵はこの増補の実現のため、数十年にわたり藩内各地をまわって資料を集め、正確さを求めて実地調査を行った[5][1]。この事業に傾注した恭庵は家禄をこれに費やすあまり、家は窮乏し、雨漏りを修すための資金すら無かったと伝わる[5][1][3]。
写本と構成、特徴
編集『因幡志』は複数の写本が現存するが、それぞれの相違点が大きい[3]。因幡国一宮の宇倍神社には「阿陪恭庵自筆奉納による原典」と伝わる全86巻の『因幡志』があるものの[2]、実際にはこれが原典であるかは不確かである[3]。鳥取県立図書館に所蔵されている西橋蔵書版(47巻)の第1巻には、明治19年(1886年)に原本から作成された写本である旨が記されている[1]。このほか鳥取藩の藩校・尚徳館には全36巻本が伝わる[3]。
西橋蔵書版にしたがうと、巻の構成は次のようになっている[1]。
首巻 | 2 |
巨濃郡 | 2 |
法美郡 | 2 |
八上郡 | 1 |
八東郡 | 2 |
智頭郡 | 2 |
邑美郡 | 2 |
高草郡 | 2 |
気多郡 | 2 |
神社之部 | 2 |
神社之図絵 | 3 |
仏閣之部 | 1 |
名所之部 | 1 |
勝地之図絵 | 2 |
国守之部 | 2 |
古城之部 | 2 |
古墳之部 | 3 |
武器図式 | 2 |
雑物図絵 | 2 |
筆記之部 | 7 |
歴世考 | 3 |
これに、同時代の鳥取藩藩医、箕浦世亮による序文が添えられている[3]。
『因幡民談記』が国守についての記述が中心的だったのに比べると、『因幡志』は各地の地誌に比重が置かれているのが特徴である[1]。前半を占める各郡の巻では、当時の郷村の戸数や産物、交通などが詳述されている[1]。
なお、明治時代に「因伯叢書」として刊行され、のちにその復刻版も刊行されたものの[2]、「校訂が不十分で脱漏も多い[3]」とされている[3]。
成立時期
編集一般的に、『因幡志』は寛政7年(1795年)に成立したとされている[1][2]。ただしより正確には、寛政7年(1795年)4月の時点でいったん脱稿したものの、それが公開されることはなかったと推定される[3]。『因幡志』に含まれる図絵のなかには、享和2年(1802年)や文化2年(1804年)に作成されたと推定されるものも含まれており、1795年以降も加筆が行われていたのだろうと考えられている[3]。
また、目録には「歴史考」は20巻となっているが、実際には3巻の村上天皇までしかない[1]。これは阿陪恭庵が20巻を書き上げる前に没してしまったためと推定されている[1]。
評価
編集編者の安陪恭庵は、「臆断せず」を信条に、長い年月を費やして史料を収集し、実際に現地へ足を運んで調査を重ねたという[3][1]。そうして詳述された因幡国各地についての記述は、江戸時代の因幡国を知る上で『因幡民談記』と「双璧をなす[2]」重要な資料と位置づけられている。
しかしながら、文政12年(1829年)に『鳥府志』を著した岡嶋正義は、恭庵の業績を称賛しつつも、「憶度私見の説少なからず」と評した[3][1]。
脚注
編集注釈
編集- ^ 本書とは別に、享保年間(1716年 - 1736年)に成立したとみられる『因幡誌』『伯耆誌』もある[1]。
- ^ 吉岡家は米子城に勤める医家で、吉岡玄昌は名医として知られていた。宝暦10年(1760年)に鳥取城に召し出され、のちに藩主池田重寛の病の治癒の功で禄高300石を与えられるまでになった。医術のほか諸学に通じ、文学や俳諧も嗜んだ。華佗の著作と言われる『中蔵経』(実際には華陀作ではない偽書とも)の注釈書『新校正中蔵経』を著した。晩年の雅号を吉岡恕翁という[6]。