国木田虎雄
大正・昭和期の詩人
国木田 虎雄(くにきだ とらお、1902年(明治35年)1月5日 - 1970年(昭和45年))は、大正・昭和期の詩人。国木田独歩と2番目の妻治子の長男。
生涯
編集東京・赤坂生まれ。1915年(大正4年)に神奈川師範附属小学校を卒業。同級生に江川宇礼雄、青柳信雄、岡田時彦(高橋英一)らがいた[1]。京北中学校に進学するも病気のため中退した[2][3]。福士幸次郎が1922年(大正11年)に始めた詩誌『楽園』などに作品を発表し、同誌編集発行人の金子光晴はじめ、同人のサトウハチロー、永瀬三吾、今井達夫らと交流した[4]。1923年(大正12年)に詩集『鷗』、翌年『独歩随筆集』を出版する。松竹蒲田のエキストラ仲間だった香取幸枝(団鬼六の実母)と結婚して鵠沼に暮らすがその後離婚し[5][6]、大田区の馬込文士村に移る[4][注釈 1]。
その後横浜出身の道子と再婚し、円本ブームで手にした父親の莫大な著作印税で新妻とホテル暮らしを始め、競馬で散財していたところを金子光晴に誘われ、1927年(昭和2年)に金子の案内で夫婦で上海に長期滞在して競馬三昧の日々を送る[7]。戦後は鎌倉に移り、鎌倉文庫勤務を経て藤沢病院精神科の看護長として10年ほど勤務したのち68歳で没した[4]。