國枝 忠雄(くにえだ ただお、1917年3月25日[1] - 2015年1月10日)は、日本の実業家中部日本放送社長を務めた。富山県富山市出身。

経歴・人物 編集

高岡高等商業学校を経て[2]1944年九州帝国大学社会学科卒業[1]。同年に日本放送協会に入社した[1][2]。しかし、1950年公職追放を受けたことにより解雇され、1952年小嶋源作の紹介により、中部日本放送に入社した[2]

東京支社長、取締役、常務、専務を経て、1975年12月に社長に就任した[1]1987年6月から副会長に就任し、1989年6月から相談役に就任した[1]

1980年藍綬褒章を受章し[3]1987年勲二等瑞宝章を受章した[4]。また、1979年イタリア政府から「共和国有功勲章コンメダトーレ章」を受章し[5]1982年オーストリア大使館からオーストリア大栄誉金章を受章し[6]1985年フランス政府から国家功労章を受章した[7]

2015年1月10日胃がんのために死去[8]。97歳没。

脚注 編集

  1. ^ a b c d e 人事興信所 2009, く36頁.
  2. ^ a b c シリーズ・放送人インタビュー2011 <第12回>国枝忠雄氏
  3. ^ 中部日本放送 50年のあゆみ p218
  4. ^ 中部日本放送 50年のあゆみ p264
  5. ^ 中部日本放送 50年のあゆみ p214
  6. ^ 中部日本放送 50年のあゆみ p235
  7. ^ 中部日本放送 50年のあゆみ p252
  8. ^ 国枝忠雄氏が死去 中部日本放送元社長2015年 1月17日 日本経済新聞

参考文献 編集

  • 人事興信所 編『人事興信録 第45版 上』人事興信所、2009年。 
先代
小嶋源作
中部日本放送社長
1975年 - 1987年
次代
高橋一夫