土倉鉱山
概要
編集明治年間に発見され、昭和年間中期まで採掘が行われてきた銅鉱山。戦前には現在の国道303号線から北側の沢の奥(奥土倉)に坑道が掘られ銅鉱石の生産が行われていたが、1940年には国道寄りの場所に新たに坑道が掘られ、事業所や住宅が移動した。 1956年前後の最盛期には400戸、1500人ほどが生活していたが、銅の輸入自由化や鉱質の低下により競争力を失い1965年には閉山に至った。従業員や家族は山を離れ、木造の事業所や住宅などは失われたが、2022年現在もなお、山中に巨大なコンクリート構造物の遺構が残されている。こうした場所への出入は禁止されているが、廃墟然とした場所を案内するツアーガイドも存在する[1]。2021年頃には廃墟の写真が評判を呼び、土日に20-30人ほどのコスプレイヤーが訪れることがあった[2]。
歴史
編集- 1910年(明治43年) - 田中銀之助が鉱山の権利を購入、奥土倉で採掘開始。
- 1916年(大正5年) - 田中鉱業に権利移転。
- 1934年(昭和9年) - 朝鮮鉱業開発(ニッチツの源流)に権利移転。土倉鉱場と呼ばれる。
- 1939年(昭和14年) - 雪崩により飯場が倒壊。
- 1940年(昭和15年) - 事業所を奥土倉から出口土倉へ移転。
- 1965年(昭和40年) - 閉山。
1939年の雪崩災害
編集1939年(昭和14年)2月7日午後5時頃、奥土倉で大雪崩があり、飯場4棟のうち2棟が倒壊、埋没。木之本町から、警察、消防などが救助に駆け付けたが死者10人、重傷者8人、軽症者2人。当時、現場は数日来の降雪により積雪1丈(現在のメートル法に換算すると約3m)に及んでいた[3]。
脚注
編集- ^ “もりもりの活動”. もりのもり (2022年). 2022年3月18日閲覧。
- ^ “ラピュタ感がすごい 滋賀の山中にそびえる「謎の廃墟」”. 産経新聞 (2021年5月12日). 2022年3月18日閲覧。
- ^ 湖北の山奥で雪崩、飯場の二十人死傷(昭和14年2月8日 大阪毎日新聞)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p228-p229 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年