多氷屯倉(おおいのみやけ、歴史的仮名遣おほひのみやけ・たひのみやけ)は、古墳時代无邪志国无邪志国造が支配した国)にあった屯倉。位置は「多氷」を「多末」(たま)の誤記として、のちの律令制における武蔵国多磨郡(たまぐん:のちの武蔵国多摩郡)と推測される。「氷」は「ひ」であって、大「井」(ゐ)の地名にはつながらない。

日本書紀』によれば、笠原使主が同族の小杵と武蔵国造の地位を争った安閑天皇元年(534年)閏12月の武蔵国造の乱において、大和朝廷と結び武蔵国造と認められた使主は、上毛野小熊と組んだ同族の小杵に勝利した。使主はその後に代償として朝廷に当屯倉と横渟屯倉橘花屯倉倉樔屯倉を献上したという(詳細は武蔵国造の乱を参照)[1]

脚註

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  1. ^ 『日本書紀』卷第十八 安閑天皇元年(534年)閏12月の条

参考文献

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  • 小島憲之 他 著 『日本書紀 2(新編日本古典文学全集 3)』 小学館 1996年 ISBN 4-09-658003-1

関連項目

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外部リンク

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