笠原使主
笠原 使主(かさはら の おみ、おぬし[1])は、古墳時代の豪族(武蔵国造)。本拠は武蔵国埼玉郡笠原郷(現・埼玉県鴻巣市笠原)だったと思われる。武蔵国造の乱の勝者として知られる。
時代 | 古墳時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
墓所 | 不明(埼玉古墳群内の可能性あり) |
官位 | 武蔵国造 |
主君 | 安閑天皇 |
氏族 | 笠原氏(姓は直) |
武蔵国造の乱
編集使主は同族の小杵と国造の地位を長年争っており、安閑天皇元年(534年?)閏12月に小杵は密かに上毛野小熊(姓は君)へ助けを求めて使主を謀殺しようとした。
これに気づいて逃げ出した使主が朝廷に助力を求めると、朝廷は使主を国造として小杵を誅したので、使主は国家のために横渟・橘花・多氷・倉樔の4処の屯倉を置いた。この一連の事件は武蔵国造の乱と呼ばれる。
中村倉司は、笠原使主は稲荷山古墳に埋葬された一族の出身であり、代々「杖刀人首」として大王・朝廷に仕えていたために、武蔵国造の乱で朝廷に援助を依頼するパイプを有しており、逆に小杵には朝廷とのパイプがなかったために上毛野小熊に頼らざるを得なかったと推察している[2]。
脚注
編集参考文献
編集- 『日本書紀』
- 近藤敏喬 編『古代豪族系図集覧』東京堂出版、1993年、312頁。ISBN 4-490-20225-3。
- 東京都中野区『中野区史. 上巻』東京都中野区、1943年、112頁 。2018年6月24日閲覧。リンクは国立国会図書館デジタルコレクション、100コマ目。
外部リンク
編集- 武蔵国造の乱 行田市教育委員会 - 古墳の時代
関連項目
編集- 稲荷山古墳出土鉄剣 - 銘文に見える「加差披余」をカサハラと読み笠原使主に比定する説がある。