大多和 就勝(おおたわ なりかつ)は、江戸時代初期の武士毛利氏家臣長州藩士。父は大多和元勝

 
大多和就勝
時代 江戸時代初期
生誕 元和2年(1616年
死没 天和4年3月6日1684年4月20日
別名 通称:与次→又兵衛
主君 毛利秀就綱広吉就
長州藩
氏族 桓武平氏三浦氏大多和氏
父母 父:大多和元勝
母:平佐元重の娘(中所元方の養女)
兄弟 就勝就弼利次
正室:宍戸就通の娘
継室:小川光俊の娘
女(御座就年室)、勝直、女(児玉通説室)、久矩、女(国司久光室)、女(江木住直室)
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生涯

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元和2年(1616年)、毛利氏家臣である大多和元勝の嫡男として生まれる。元和10年(1624年1月11日毛利秀就加冠を受けて元服し、「就」の偏諱を与えられて「就勝」と名乗る[1]

その後、毛利秀就、綱広吉就の3代に仕え、天和4年(1684年3月6日に死去。享年69。子の勝直が後を継いだ。

脚注

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  1. ^ 『閥閲録』巻123「大多和惣兵衛」第47号、元和10年1月11日付 大多和就勝宛て毛利秀就加冠状。

参考文献

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