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毛利 綱広(もうり つなひろ)は、長州藩の第2代藩主。初代藩主・毛利秀就の四男[1][2]。母喜佐姫徳川家康の孫なので、綱広は家康の外曾孫に当たる。

 
毛利綱広
時代 江戸時代
生誕 寛永16年11月20日[1]1639年12月14日
死没 元禄2年4月17日1689年6月4日[1]
改名 千代熊丸[1]幼名[2])→綱広
戒名 泰巌院殿前二州太守四品拾遺補闕兼大官令清高亮安大居士[1]、泰巌公[1]
墓所 山口県萩市大照院[1]
官位 従五位下[1]、従四位下[1]、侍従[1]、大膳大夫[1]、贈従三位[2]
長州藩藩主
氏族 毛利氏
父母 父:毛利秀就[1][2]、母:竜昌院[1][2]
正室:千姫(高寿院、松平忠昌娘)[1]
継室:房子(昌寿院、梨木永祐娘)[1]
吉就[3]吉広[3]元重[4]、良(松平義行正室)[5]、品(内藤弌信継室)[5]、勘(毛利就豊毛利就詮の子)室)[6]、幸(毛利匡広正室・放光院)[6]、類(松平忠雅正室)[3]

生涯編集

1639年12月14日寛永16年11月20日[1])に江戸桜田の藩邸で生まれる[2]1651年(慶安4年)、父の死去で跡を継ぐ[1][2]1653年(承応2年)に叙任し、将軍徳川家綱(綱広の外又従弟にあたる)から偏諱を受けて綱広と名乗った[2]1654年(承応3年)には周防国三田尻を結ぶ萩往還を造った。その際に、三田尻御茶屋を築造して、参勤交代の拠点とした。藩政では、榎本就時を起用して万治制法と呼ばれる法令「33か条の条目」を1660年(万治3年)に制定させた[2]。これは毛利元就以来の先例をまとめ上げたものと言われている。

このように藩政を確立したが、その反面で自尊心も人一倍強く、徳川将軍家家門筆頭の越前松平家から正室・千姫(高寿院)を迎えている(自身も母方で越前家の血を引き、千姫とは外従兄妹にあたる)にもかかわらず、元就の嫡孫・毛利輝元の嫡孫であるということから[要出典]、徳川家に仕えることを恥として、江戸に滞在しながら病と称して江戸城に登城しないことさえあったという[2]。この問題行動について、綱広の母が結城秀康の娘であることから幕府から追及はされなかったが[2]改易を恐れた家臣の多くがこの綱広の行為に反発し、綱広に隠居を要求するようになる[2]。綱広はやむを得ず、1682年(天和2年2月27日[1])に長男の吉就に家督を譲って、麻布の藩邸に隠居した[2]

元禄2年4月17日1689年6月4日)に江戸麻布龍土邸で死去した[1][2]。享年51[1][2]。墓所は山口県萩市椿の大照院[1][2]昭和3年(1928年)11月に従三位を追贈された[2]

偏諱を与えた人物編集

毛利綱広を演じた人物編集

  • 森繁久彌 - TBS系列『水戸黄門』第23部 二十二話「白いお髭の意地比べ・萩」…劇中では水戸黄門(光圀)と碁の腕を競った仲で互いに「圀さん」「綱さん」と呼び合う親友となっている。

脚注編集

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 時山弥八編 1916, p. 89.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 吉田 1976, p. 235.
  3. ^ a b c 時山弥八編 1916, p. 91.
  4. ^ 時山弥八編 1916, p. 92.
  5. ^ a b 時山弥八編 1916, p. 90.
  6. ^ a b 時山弥八編 1916, p. 93.

参考文献編集

  •  時山弥八編『国立国会図書館デジタルコレクション 稿本もりのしげり』、1916年。NCID BN04718592
  • 吉田祥朔 『近世防長人名辞典』 (増補版) マツノ書店、1976年6月1日。 NCID BN02934961