大崎義兼

戦国時代の大名

大崎 義兼(おおさき よしかね)は、戦国時代大名室町幕府奥州探題官位従五位上左京大夫大崎氏9代当主。

 
大崎 義兼
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 享禄2年(1529年
改名 彦三郎(幼名)、義兼
官位 従五位上左京大夫
幕府 室町幕府奥州探題
氏族 大崎氏
父母 大崎政兼:不詳
高兼義直高清水直堅黒川晴氏正室
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略歴

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大崎教兼の嫡男で8代当主・大崎政兼(まさかね、「政」字は8代将軍足利義政より偏諱を受けたもの)の子として誕生。幼名は彦三郎。

元服時に、9代将軍・足利義尚(義政の子)から偏諱(「義」の字)を受け、太刀を与えられた。長享2年(1488年)、大崎領内で反乱が起こると、一時的に伊達尚宗を頼って落ち延び、その援軍を受けて反乱を鎮圧するなど、当主としての力量に乏しい人物だった。

享禄2年(1529年)に死去。長男・高兼が家督を継いだ。

3男・直堅は、大崎満持の子・高清水持家から別れた高清水氏に婿入りしている(高清水定家大崎教兼の子)の娘と結婚したか)[1][2]

脚注

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  1. ^ 古川市史編さん委員会編『古川市史』(古川市、2001年)
  2. ^ 狩野陸三『高清水物語』(高清水町史編纂委員会、1964年)

参考文献

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