日本海兵隊(かいへいたい[1])は、イギリス海兵隊に倣って[2][3]明治初期の日本海軍に短期間置かれていた、歩兵砲兵及び楽隊・鼓隊から成る部隊である。儀礼に要する衛兵や野砲の運用を受持っていた[4]

概要 編集

1870年10月26日(明治3年10月2日)の布告[5]及び同年11月2日(10月9日)の「明治3年10月9日御沙汰書」(海陸兵制の義に付弁官へ申牒御達)[注 1]により、創設期の日本海軍の制度はイギリス海軍が模範とされるようになったため、”英国マリーン”に倣って海兵隊も設けることとなった。

明治4年、海兵士官学校が設立され、水兵本部(すいへいほんぶ[7])が置かれた[8][注 2]。 当時は今日の水兵に相当する艦艇乗組員は「水夫」と呼ばれており[注 3]1871年11月10日(明治4年9月28日)に水兵本部は海兵(かいへい[1])及び水火夫を艦船から下ろした者を管轄することになる[17]。その後、1872年7月3日(明治5年5月28日)に水夫は水兵本部の管轄から外され[18]、1872年11月15日(明治5年10月15日)の海軍条例(第1條第8)で水兵本部は海軍海兵隊及び砲兵隊を管轄するとされた[19]。 海兵はこれを水兵本部に備え、あるいは提督府[注 4]に派遣し、あるいは軍艦に乗載させた[10]。 海兵の名称については、1871年12月20日(明治4年11月9日)に海兵及び水卒(すいそつ[7])を水勇(すいゆう[7])と改称し[22]、1872年4月11日(明治5年3月4日)に水勇の名称を廃止して海兵と唱えさせた[23]海兵部(かいへいぶ[1])は1873年(明治6年)8月に特に海軍武官官等表の中に設けており[24]、他の乗艦武官を掲載する区域との違いを示すのみで別に庁衙を設けているのではない[10]

1874年(明治7年)の佐賀の乱や同年の征台の役、翌1875年(明治8年)の江華島事件に投入された。

1876年(明治9年)に海兵隊を解隊した[注 5] [注 3]

組織及び人員 編集

海兵は、砲兵及び歩兵の両科に区分された[4]。水兵本部がこれを統括し、各艦船の定員に応じて分乗した。艦船内ではこれを海兵部と称した[4]。水兵本部には、本部、砲兵科歩兵科が置かれたほか、楽隊・鼓隊も付属された[4]

曹長以下の者(下士)は、元来は陸軍兵より海兵に転じたものであった[32](当時の階級については日本軍の階級参照)。明治4年10月、海兵士官学校が設けられ。教官にはイギリス海兵隊のブルンクリー大尉が就任し、第1回入校生徒としては酒井忠利(後の海軍少将)らがいた[4]

当初の構成は次の通りである[33]

海兵隊が廃止された際には、士官は、海軍士官として勤続するか、退職帰郷するか、陸軍士官に転職するか、各自の希望に沿った処置がされ、陸軍への転職者がかなり多数であった[32]

海兵士官学校は海兵隊廃止と共に閉校されたので、在学していた本科生は、海軍兵学校生徒に編入されて、特別即成の教育を受けて、1876年(明治9年)12月に同校を卒業した[32]。予科生徒も海軍兵学校に転学し、1881年(明治14年)9月10日に卒業した[34]。海軍兵学校に転じた予科生徒には志摩清直もいた。海兵隊廃止後は、海軍陸戦隊が海兵隊に近い任務を担った。

在隊した著名人としては、田中穂積[注 6]もいる。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 「兵制儀ハ皇国一般ノ法式可被為立候得共今般常備兵員被定候ニ付海軍ハ英吉利式陸軍ハ仏蘭西武ヲ斟酌御編制相成相改候様被仰付候事」[6]
  2. ^ 中西は創立を明治6年としている[9]。大政紀要によると兵部省のときに水兵部(すいへいぶ[7])の項目があり海軍省を建省した歳に改めて水兵本部と称した[10]。明治4年7月の兵部省職員令では海軍水兵部は要港を守衛し及び水戦の事を掌るとあり[11]、1871年10月16日(明治4年9月3日)には水兵本部の名称が見える[12]。明治4年8月に初めて海兵の募集編隊に着手し[13]、1871年10月3日(明治4年8月19日)に赤塚真成を海軍中佐に任じて直ちに海兵を徴募するため東京丸へ乗組出張を命じており[14]、同年10月には海軍大佐に昇任した赤塚真成に水兵本部分課を命じている[15]
  3. ^ a b 水夫の名称については、1876年(明治9年)に海兵を解隊したときに同年8月19日に水夫を水兵と改称している[16]
  4. ^ 明治4年の兵部省職員令では提督府は要港を選び府となし沿海管下湾港の兵備を分轄すとされ[20]、明治5年の海軍条例(第1條第10)では提督府は附近の要港を管轄し東京並びに外6箇所に分守する事とされた[19]鎮守府の前身[21]
  5. ^ 澤鑑之丞は7月としているが[25]、『太政類典』では8月19日の海軍省届に海兵を解隊して水夫に採用または除隊するとあり[26]、『法令全書』は海兵解隊により関連する海軍省達が消滅した日付を8月19日としている[27] [28]。 また、明治11年2月19日太政官第5号達[29]によって海軍省文武官等表中の海兵部が廃止されたため、明治11年としている書籍もある[3][9]。大政紀要によると明治9年8月に海兵を解隊して以来、海兵の情願によりあるいは水兵に採用し、あるいは除隊し、士官についても艦務研究のため各艦船に分乗するなど配置転換により海兵部の武官がいなくなったことから、明治11年2月に官等表から海兵部の部目を廃止した[30]。明治11年の海軍省から太政官への上請にも同様の理由が記載されている[31]
  6. ^ 田中穂積は1873年(明治6年)5月31日に命5等鼓手[35]。後に海軍軍楽師[35]准士官)。

出典 編集

  1. ^ a b c 国立国会図書館 2007, p. 37.
  2. ^ 澤鑑之丞 1942, p. 245, NDLJP:1062905/133
  3. ^ a b 太田臨一郎 1980, p. 136
  4. ^ a b c d e 澤鑑之丞 1942, p. 246, NDLJP:1062905/134
  5. ^ 「常備兵員海軍ハ英式陸軍ハ仏式ヲ斟酌シ之ヲ編制ス因テ各藩ノ兵モ陸軍ハ仏式ニ基キ漸次改正編制セシム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070892100、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第百十四巻・兵制・雑(国立公文書館)
  6. ^ 「御沙汰書 海陸兵制の義に付弁官へ申牒御達」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09090033500、公文類纂 明治3年 巻1 本省公文 制度部 職官部(防衛省防衛研究所)
  7. ^ a b c d 国立国会図書館 2007, p. 173.
  8. ^ 太田臨一郎 1980, p. 17
  9. ^ a b 中西立太 2006, p. 79
  10. ^ a b c JACAR:A04017113000(第35画像目、第42画像目)
  11. ^ 内閣官報局 編「兵部省第57 兵部省職員令、官位相当表、兵部省陸軍部内条例書(7月)」『法令全書』 明治4年、内閣官報局、東京、1912年、714頁。NDLJP:787951/394 
  12. ^ 内閣官報局 編「兵部省第81 艦船水火夫病気入院中乗組ヲ免スル者ハ全快ノ後水兵本部ニ引取本部滞在中ハ元給二分ノ一ヲ給セシム(9月3日)」『法令全書』 明治4年、内閣官報局、東京、1912年、762頁。NDLJP:787951/418 
  13. ^ 「軍艦乗組官等並日給表・二条」国立公文書館、請求番号:太00457100、件名番号:017、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百三十四巻・兵制三十三・会計二(第4画像目)
  14. ^ 「海軍諸達留 赤塚直成任中佐の件太政官御達他1件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09090228800、公文類纂 明治4年 巻6 本省公文 黜陟部3(防衛省防衛研究所)(第1画像目)
  15. ^ 「戊1号大日記 赤塚中佐大佐昇任御達其外達」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09090236600、公文類纂 明治4年 巻6 本省公文 黜陟部3(防衛省防衛研究所)(第1画像目)
  16. ^ 内閣官報局 編「海軍省記三套第70号達 水夫ヲ水兵ト改称(8月19日)」『法令全書』 明治9年、内閣官報局、東京、1912年、1203頁。NDLJP:787956/662 
  17. ^ 「記録材料・海軍省報告書第一」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A07062089000、記録材料・海軍省報告書第一(国立公文書館)(第20画像目)
  18. ^ 内閣官報局 編「海軍省乙第71号 水夫ノ水兵本部管轄ヲ免ス(5月28日)」『法令全書』 明治5年、内閣官報局、東京、1912年、1024頁。NDLJP:787952/572 
  19. ^ a b 「海軍条例ヲ定ム」国立公文書館、請求番号:太00431100、件名番号:014、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百九巻・兵制八・武官職制八(第2画像目から第3画像目まで)
  20. ^ 内閣官報局 編「兵部省第57 兵部省職員令、官位相当表、兵部省陸軍部内条例書(7月)」『法令全書』 明治4年、内閣官報局、東京、1912年、714頁。NDLJP:787951/394 
  21. ^ JACAR:A04017113000(第25画像目、第42画像目)
  22. ^ 内閣官報局 編「兵部省第136 海兵及水卒ヲ水勇ト改称(11月9日)」『法令全書』 明治4年、内閣官報局、東京、1912年、811頁。NDLJP:787951/442 
  23. ^ 内閣官報局 編「海軍省第2 水勇ノ称ヲ廃シ海兵ト唱ヘシム(3月4日)」『法令全書』 明治5年、内閣官報局、東京、1912年、1005頁。NDLJP:787952/562 
  24. ^ 内閣官報局 編「太政官第288号 海軍武官官等改定 (8月8日)(布)」『法令全書』 明治6年、内閣官報局、東京、1912年、444頁。NDLJP:787953/296 
  25. ^ 澤鑑之丞 1942, p. 252, NDLJP:1062905/137
  26. ^ 「海兵ヲ解隊シテ水夫ニ採用シ改テ水兵ト称ス」国立公文書館、請求番号:太00465100、件名番号:077、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百四十二巻・兵制四十一・雑
  27. ^ 内閣官報局 編「海軍省記三套第25号達 三套第八号(海兵隊下士以下練習艦乗組期限)達但書追加(3月3日)」『法令全書』 明治9年、内閣官報局、東京、1912年、1176頁。NDLJP:787956/649 
  28. ^ 内閣官報局 編「海軍省記三套第56号達 艦船乗組海兵隊下士以下事業服保存期限(6月27日)」『法令全書』 明治9年、内閣官報局、東京、1912年、1194頁。NDLJP:787956/658 
  29. ^ 内閣官報局 編「太政官第5号達 海軍文武官官等表中海兵部廃止(2月19日)」『法令全書』 明治11年、内閣官報局、東京、1912年、1194頁。NDLJP:787958/92 
  30. ^ JACAR:A04017113000(第36画像目)
  31. ^ 「秘出10 官等表中海兵部目被廃度件太政官へ上請他1件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09112766700、公文類纂 明治11年 前編 巻1 本省公文 制度部 職官部(防衛省防衛研究所)
  32. ^ a b c 澤鑑之丞 1942, p. 250,NDLJP:1062905/136
  33. ^ 澤鑑之丞 1942, p. 247,NDLJP:1062905/134
  34. ^ 澤鑑之丞 1942, p. 251, NDLJP:1062905/136
  35. ^ a b 「海軍船匠師勲六等大石善作以下十六名叙位ノ件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A10110571800、叙位裁可書・明治二十九年・叙位巻十二(国立公文書館)(第12画像目、第16画像目)

参考文献 編集

  • 太田臨一郎『日本の軍服-幕末から現代まで-』国書刊行会、1980年。 
  • 「単行書・大政紀要・下編・第六十六巻」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A04017113000、単行書・大政紀要・下編・第六十六巻(国立公文書館)
  • 国立国会図書館 (2007年1月). “ヨミガナ辞書” (PDF). 日本法令索引〔明治前期編〕. ヨミガナ辞書. 国立国会図書館. 2023年1月9日閲覧。
  • 澤鑑之丞『海軍七十年史談』文政同志社、東京、1942年12月1日。doi:10.11501/1062905NDLJP:1062905 
  • 中西立太『日本の軍装―幕末から日露戦争―』大日本絵画、2006年8月。ISBN 978-4-499-22919-7 

関連項目 編集