大関増輔
大関 増輔(おおぜき ますすけ)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。下野国黒羽藩9代藩主。
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 宝暦10年(1760年) |
死没 | 文化4年4月22日(1807年5月29日)[1] |
改名 | 弁吉(幼名)[2]→増輔 |
別名 | 弾正[2] |
戒名 | 本覚院殿無量義印大居士 |
墓所 | 栃木県大田原市の大雄寺 |
官位 | 従五位下・伊予守[1][2] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治→家斉 |
藩 | 下野黒羽藩主 |
氏族 | 大関氏 |
父母 |
父:大関増備、母:側室 養母:池田政方娘 |
兄弟 | 増輔、女子 |
妻 | 正室:六郷政林娘・逸 |
子 | 増陽、弼教(次男)、ほか |
宝暦10年(1760年)(もしくは宝暦12年(1762年)2月22日[1])、8代藩主・大関増備の長男として生まれる。実母は身分の低い女性だったと言われている。
明和元年(1764年)に父が没すると、10月22日に跡を継ぎ[1][2]、明和7年(1770年)3月26日に元服する。安永7年(1778年)5月6日、駿府加番に任命される[1]。翌安永8年(1779年)12月16日、従五位下・伊予守に叙任される[1]。
天明7年(1787年)2月2日、大阪加番となり[1]、寛政7年(1795年)1月26日[1]、寛政12年(1800年)2月6日にも大阪加番を命じられる[1]。享和2年(1802年)8月6日、病気を理由に長男・増陽に家督を譲って隠居した[1]。
系譜
編集父母
正室
- 逸 ー 六郷政林の娘
子女