夫概(夫槩、ふがい、生没年不詳)は、余昧の子[1]闔閭の弟。

概要

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紀元前506年柏挙の戦い孫武伍子胥とともに公族である嚢瓦の軍勢を蹴散らして、楚の都のを占領した。そのとき、闔閭は王宮のうち旧令尹邸を末子の公子子山に与えた。しかし、夫概は甥の子山を攻撃したので、叔父を恐れた子山は立ち退いて、父の陣営に向かった。代わって夫概がここを本営とした(『春秋左氏伝』)。

紀元前505年、兄が呉の戦いの最中に、こっそりと陣払いをし、自立して呉王を名乗ったが、戻ってきた闔閭の兵に敗れて、楚に亡命した。その後、楚から領土の堂谿を与えられて、その子孫は堂谿氏と称した[2]

広韻』には、百済王扶余氏は「中国の夫概から出た扶余氏」と記録されている。

風俗通云,吳公子夫摡奔楚。其子在國,以夫餘爲氏。今百濟王夫餘氏也[3]

風俗通に云う、の公子である夫概はに奔走した。その子に国ができた。そこで扶余をもって氏とした。今の百済王扶余氏なり。 — 広韻、餘

脚注

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  1. ^ 史記索隠』が引く孔穎達の言
  2. ^ 史記』呉太伯世家
  3. ^ “餘 廣韻余小韻”. 韻典網. オリジナルの2022年8月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220814193655/https://ytenx.org/kyonh/dzih/2055/