夫米(ぶまい)とは江戸時代大名旗本等の領地知行所において夫役の代りとして納める米のことである。金銭で収めるものを夫金(ぶきん)という。

概要 編集

地方凡例録に、以下の通り記載されている。

夫米、夫金は、御料には無之、私領計に有る也、往古は、領地知行所より人夫を呼び遣ひたる由、大番にて京都詰等有之節は、夫人〔ママ〕を京都へ呼びて遣ひ、又江戸屋敷にても、人夫とて遣ひたる處、遠方の村々、京江戸に永く詰ては、農業にも差支、人々入用も相掛り難儀を致し、又地頭の方にても、在郷の夫人〔ママ〕用事の便利宜からざる故、高に何程と夫米相納させ、人夫にて、呼遣ふ事は止たり

(現代語訳)

夫米、夫金は、御料所天領)にはなく、諸藩や旗本知行地のみにある制度である。昔は、領地や知行所から夫役の人員を召し出し遣っており、大番の役目で京都駐在などがある場合は、京都へ呼んで遣い、又江戸屋敷でも、労役を提供させていたが、遠方の村々の者が、京江戸に長期間滞在しては、農業にも差し支え、出費も重なり民衆は難渋し、又、在地の役人も、当地で夫役させようとすると都合が悪くなるため、石高に応じて夫米を収めさせるようになり、実際に人を呼んで遣うことはなくなった

これが、制度の起源であるが、何時頃からの制度であるかの詳細は不明である。

なお、納付比率は各藩によって異なり、百石に対して一斗四升(0.14%)ほどから二斗五升(0.25%)までまちまちであった。

また、天領においては、同様の制度として、六尺給米があり、私領が天領になる場合、六尺給米より額が少なければ六尺給米を納めさせて夫米を止めた。

夫金 編集

「夫金」は米の代りに「」(「」の千分の一である貨幣単位)で収めることを言った。これは、臨時に徴収が必要なときに、石高百石に付き、金三両を取り立てる法である。寛永3年(1626年)、徳川家光上洛の時、百石につき三両を拠出することとされてから、以後行われるようになった(農政座右、地方凡例録)。

参考文献 編集

  • 佐藤常雄「夫米」(『国史大辞典』(吉川弘文館、1993年))

関連項目 編集