安達 典夫(あだち のりお、1954年9月20日 - )は東京都荒川区出身のプロゴルファー

 安達 典夫 
Norio ADACHI
基本情報
名前 安達 典夫
生年月日 (1954-09-20) 1954年9月20日(69歳)
身長 176 cm (5 ft 9 in)
体重 75 kg (165 lb)
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都荒川区
経歴
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来歴 編集

実家は日暮里駅前に本社を置く安達運送[1]で、駐車場には町内の神輿が安置してあり、諏方神社の夏祭りに、子供の頃から法被を着て神輿を担ぐのが、楽しみであった[2]

ゴルフを始めたのが第二日暮里小学校の頃で、ゴルフ好きでシングルの腕前を持つ父親の同伴で遊びながらプレーし、荒川区立第八中学校2年の夏休みに、キャディのアルバイトをしながら朝夕に練習したのが、本格的にゴルフをした最初であった[2]

都立竹台高校3年時には倉本昌弘藤木三郎も顔を出していたジュニア選手権に出場し、決勝進出して48位であった[2]

高校卒業後はプロゴルファーになるつもりは全くなく、体育教師を目指して受験勉強中であったが、専修大学のゴルフ部長から誘いの電話が入る[2]。父親と相談の結果[2]、専修大に進学し、ゴルフ部に入部。

進学後は腕立て伏せなど、一人でもヘタると、全員が始めからやり直しで、際限なくやらされるなどの激しい練習に耐え、卒業後にプロテストで合格[2]

3年目の1981年にはパールカントリークラブオープンアメリカ)で1アンダーで鷹巣南雄の1組前でスタートし、17番まで2つのバーディを奪い3アンダーとし最終18番ティーに立つ[3]。鷹巣が18番でバーディを取ればプレーオフの可能性も残ったが、緊張のティーショットと2打目を乗せればパーは拾えるという状況で最終ショットに迷いはなく、2打目はピンまで8mの距離に乗せ、入念にラインを読み、優勝を決定的にするバーディでフィニッシュ[3]。プロ入り3年目での初優勝を海外初出場で決め、4500ドルを獲得[3]

1984年にはプロミスカップ東西対抗で個人優勝を飾り[2]新潟オープンでは藤木三郎井上幸一安田春雄前田新作高橋勝成飯合肇に次ぐと同時に金井清一海老原清治と並んでの9位タイに入った[4]

1985年ブリヂストン阿蘇オープンでは磯崎功栗原孝新井規矩雄金子柱憲・金井・川上実と並んでの10位タイ[5]1987年水戸グリーンオープンでは真板潔渡辺三男土山録志と共に合田洋の2位タイに入る[6]

1988年には静岡オープン杉原輝雄芹澤信雄と並んでの8位タイ[7]ポカリスエットオープンでは奥田靖己と共にイアン・ベーカーフィンチグラハム・マーシュブライアン・ジョーンズクレイグ・パリーオーストラリア勢に次ぐ日本勢最上位の5位タイ[8]に入り、開幕2試合連続トップ10入りを記録[9]富山県オープンでは横島由一に次ぐと同時に並木弘道伊藤正己謝永郁中華民国)を抑えての3位[10]でスタートし、最終日は74を叩いて3位タイ[11]に留まった。

1992年日経カップ 中村寅吉メモリアルを最後にレギュラーツアーから引退[12]

主な優勝 編集

  • 1981年 - パールカントリークラブオープン
  • 1984年 - プロミスカップ東西対抗(個人)

脚注 編集

外部リンク 編集