宋 子貞(そう してい、1189年 - 1268年)は、モンゴル帝国大元ウルス)に仕えた漢人官僚の一人。

生涯 編集

宋子貞は幼い頃より学問を好み詩賦を作るに巧みで、弱冠にして礼部の試験を受けその名を知られていた[1]末、宋子貞の住まう潞州にもモンゴル軍が侵攻すると、宋子貞は兵乱を避けて魏・趙地方に逃れた[1]。この頃、大名地方には南宋朝廷を正統と奉ずる紅襖軍彭義斌が進出してきており、宋子貞は彭義斌に召し抱えられて安撫司計議官に任じられた[2]。しかしモンゴル・金朝双方を敵とする彭義斌は早くに打倒され、その後子貞はこの方面に勢力を拡大した東平行台の厳実に仕えることとなった[2]。宋子貞の名声を狙った厳実はこれを招いて自らの幕府に置き、東平行台の行政に重用した。この頃、モンゴルの総督府では耶律楚材が高い地位にあり、宋子貞は耶律楚材に礼を尽くすよう厳実に薦めたところ、以後耶律楚材は何かと便宜を図るようになったため、以後厳実はますます宋子貞を信任するようになったという[3][4]

1232年壬辰/大宗4年)、金軍は大挙して厳実の守る黄陵を攻めたて、厳実軍は劣勢となったため、一帯の人心が動揺した。この時、宋子貞は逃れかえって金軍の脅威を叫ぶ者達を敢えて処断することで士気を保ったと伝えられている。一方、モンゴル軍本隊は同年中に三峰山の戦いで大勝利を収め、翌年には金朝の首都開封を陥落させた。これにより開封に逃れていた難民は北方に帰還することになったが、長きにわたる包囲戦で食料は既に尽き、道沿いに餓死者が溢れる惨憺たる状況を呈した。そこで宋子貞は難民を救済して1万人余りの命を救い、また張特立劉肅李昶ら金朝に仕えていた学士たちを登用している。これにより、東平の人材は他より勝る、と評されるようになった[5]

1235年乙未/太宗7年)には太宗オゴデイ・カアンにより行台右司郎中に任じられ、荒廃した華北における行政機構の再編に大きく寄与した。厳実が死去し、後を継いだ厳忠済も引き続き宋子貞を重用し、モンゴル朝廷に請願して参議東平路事・兼提挙太常礼楽の地位を宋子貞に授けるよう計らった。この頃、宋子貞は曲阜において孔家と孔子廟の再建を行い、「東平府学」を開いて学問を奨励したが、これらの事業は斉・魯地方(=山東地方)の儒学の気風を一変させたと評されている[6][7]

第4代皇帝モンケが即位すると、皇弟クビライが東アジア方面軍の司令官に任じられ、1259年己未)にクビライは曹州濮州の間の草原に野営すると現地の有力者を招いた[8]。この時真っ先に招聘されたのが宋子貞で、今後の方策を問われた宋子貞は「投降した者は無闇に殺さず歓迎することを」を進言し、この方針は後の南宋侵攻にも影響を与えることとなった[8]中統元年(1260年)、モンケ・カアンの死を受けて即位を宣言したクビライにより宋子貞は益都路宣撫使に任命されたが、間もなく中央に召喚されて三部尚書に任命された。この頃行われた省部の機構の整備に宋子貞は大きく寄与したと伝えられる。中統3年(1262年)に李璮の乱が勃発した際には、宋子貞は参議軍前行中書省事に任じられて先行し、李璮の拠る済南の情勢を観察した。その後、李璮討伐軍を率いる史天沢に対し「李璮は外部に味方のない『孤城』であり、城の周囲に環城を築き糧食が尽きるのを待てば自ずと陥落するであろう」と説き、この戦略が採用されて李璮は討伐されるに至った[9]

李璮の乱鎮圧から帰還すると、遷転法の徹底による軍閥の解体を主導し、これにより宋子貞の主筋にあたる東平厳氏も含む漢人世候は廃止されるに至った[10]至元2年(1265年)、左丞相耶律鋳とともに派遣されて漢人世候解体後の後始末を行い、帰還後は翰林学士・参議中書省事の地位を授けられた[11]

しかし至元3年(1266年)11月には官職を辞して引退し、至元5年(1268年)に81歳にして亡くなった。死の直前まで朝廷の同行に気を配り、事があれば疏により上奏をを行ったと伝えられている[12]。息子に宋渤がおり、大元ウルスに仕えて集賢学士の地位に至っている[13]

なお、宋子貞が亡くなった年に撰文された耶律楚材の神道碑「中書令耶律公神道碑」は宋子貞最晩年の著作であり、耶律楚材の生涯を知る上での第一級史料と位置付けられてきた[14]。しかし、モンゴル史研究者の杉山正明は宋子貞が死の直前であったことも踏まえ、「中書令耶律公神道碑」は先行する「趙衍撰行状」「李微撰墓誌」をほぼそのまま引用する形で作成され、銘文だけは宋子貞が付け足したのであろうと推測している[15]

脚注 編集

  1. ^ a b 杉山 1996, p. 47.
  2. ^ a b 杉山 1996, p. 48.
  3. ^ 杉山 1996, p. 49.
  4. ^ 『元史』巻159列伝第46宋子貞伝,「宋子貞字周臣、潞州長子人也。性敏悟好学、工詞賦。弱冠、領薦書試礼部、与族兄知柔同補太学生、俱有名於時、人以大・小宋称之。金末、潞州乱、子貞走趙・魏間。宋将彭義斌守大名、辟為安撫司計議官。義斌歿、子貞率衆帰東平行台厳実。実素聞其名、招置幕府、用為詳議官、兼提挙学校。先是、実每令人請事于朝、托近侍奏決、不経中書、因与丞相耶律楚材有違言。子貞至、勧実致礼丞相、通慇懃、凡奏請、必先咨禀。丞相喜、自是交懽無間、実因此益委信子貞」
  5. ^ 『元史』巻159列伝第46宋子貞伝,「太宗四年、実戍黄陵。金人悉力来攻、与戦不利、敵勢頗張、曹・濮以南皆震。有自敵中逃帰者、言金兵且大至、人情恟懼。子貞請於実、斬揚言者首以令諸城、境内乃安。汴梁既下、饑民北徙、餓殍盈道。子貞多方賑救、全活者万餘人。金士之流寓者、悉引見周給、且薦用之。拔名儒張特立・劉肅・李昶輩於羈旅、与之同列。四方之士聞風而至、故東平一時人材多於他鎮」
  6. ^ 杉山 1996, pp. 50–51.
  7. ^ 『元史』巻159列伝第46宋子貞伝,「七年、太宗命子貞為行台右司郎中。中原略定、事多草創、行台所統五十餘城、州県之官或擢自将校、或起由民伍、率昧於従政。甚者、專以掊克聚斂為能、官吏相与為貪私以病民。子貞倣前代観察采訪之制、命官分三道糾察官吏、立為程式、与為期会、黜貪墯、奬廉勤、官府始有紀綱、民得蘇息。東平将校占民為部曲戸、謂之脚寨、擅其賦役、幾四百所。子貞請罷帰州県。実初難之、子貞力言乃聴、人以為便。実卒、子忠濟襲爵、尤敬子貞。請于朝、授参議東平路事、兼提挙太常礼楽。子貞作新廟学、延前進士康曄・王磐為教官、招致生徒幾百人、出粟贍之、俾習経芸。每季程試、必親臨之。齊魯儒風、為之一変」
  8. ^ a b 杉山 1996, p. 51.
  9. ^ 『元史』巻159列伝第46宋子貞伝,「歳己未、世祖南伐、召子貞至濮、問以方略。対曰『本朝威武有餘、仁徳未洽。所以拒命者、特畏死爾、若投降者不殺、脅従者勿治、則宋之郡邑可伝檄而定也』。世祖善其言。中統元年、授益都路宣撫使。未幾、入覲、拝右三部尚書。時新立省部、典章制度、多子貞裁定。李璮叛、拠濟南、詔子貞参議軍前行中書省事。子貞単騎至濟南、観璮形勢、因説丞相史天沢曰『璮擁衆東来、坐守孤城、宜増築外城、防其奔突、彼糧尽援絶、不攻自破矣』。議与天沢合、遂擒璮」
  10. ^ 杉山 1996, pp. 52–53.
  11. ^ 『元史』巻159列伝第46宋子貞伝,「子貞還、上書陳便宜十事、大略謂『官爵、人主之柄、選法宜尽帰吏部。律令、国之紀綱、宜早刊定。監司総統一路、用非其材、不厭人望、乞選公廉有才徳者為之。今州県官相伝以世、非法賦斂、民窮無告、宜遷転以革其弊』。又請建国学教冑子、敕州郡提学課試諸生、三年一貢挙。有旨命中書次第施行之。至元二年、始罷州県官世襲。遣子貞与左丞相耶律鋳行山東、遷調所部官。還、授翰林学士、参議中書省事。奏請班俸祿、定職田、従之。俄拝中書平章政事。復陳時務之切要者十二策、帝頗悔用子貞晚」
  12. ^ 『元史』巻159列伝第46宋子貞伝,「未幾、以年老求退、帝曰『卿気力未衰、勉為朕留、措置大事、俟百司差有條理、聴卿自便』。三年十一月、懇辞、乃得請。特敕中書、凡有大事、即其家訪問。子貞私居、每聞朝廷事不便、必封疏上奏、愛君憂国、不以進退異其心。卒年八十一。始病、家人進医薬、却之曰『死生有命、吾年踰八十、何以薬為』。病危、諸子請遺言、子貞曰『吾平昔教汝者不少、今尚何言耶』」
  13. ^ 『元史』巻159列伝第46宋子貞伝,「子渤、字齊彦、有才名、官至集賢学士」
  14. ^ 杉山 1996, pp. 27–28.
  15. ^ 杉山 1996, pp. 39–41.

参考文献 編集

  • 元史』巻159列伝第46宋子貞伝
  • 新元史』巻158列伝第55宋子貞伝
  • 杉山正明『耶律楚材とその時代』白帝社、1996年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会〈東洋史研究叢刊〉、2004年。ISBN 4876985227NCID BA66427768https://id.ndl.go.jp/bib/000007302776 
  • 藤野彪/牧野修二編『元朝史論集』汲古書院、2012年