史 天沢(し てんたく、泰和2年(1202年)- 至元12年2月7日1275年3月5日))は、モンゴル帝国元朝)に仕えた漢人軍閥の一人である。は潤甫。析津府永清県の出身。曾祖父は史倫。祖父は史成珪。父は史秉直。兄は史天倪。子は史格

史天沢像

概要

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華北の漢人軍閥で、真定地方に勢力を誇った軍閥である。史家は金朝に仕えていたが、金朝がモンゴルの攻勢に押された上に内紛を繰り返したことから、1213年チンギス・カンの有力武将のムカリに降伏して以後はモンゴルの家臣となった。兄の史天倪と共に各地を転戦して武功を挙げたが、史天倪が1225年、金朝の軍閥である武仙を降伏させた直後、今度は南宋と内通した武仙によって殺害されたため、史天沢は武仙を討って史天倪の後を継いで都元帥となる。以後は漢人軍閥の重鎮として華北の漢人軍閥を率いて、金討伐でも功績を立てた。

1229年に第2代カアン(皇帝)オゴデイ・カアンが即位した時、オゴデイは支配下の漢人軍閥を「三万戸」に再編し、その長の一人に史天沢を抜擢した[1]。これによって史天沢はモンゴル支配下の「真定・河間・大名・東平・済南」の五地域を統轄するようになり、史天沢の統轄する軍団は「五路万戸」とも呼ばれた[2][3]。もっとも、東平の厳実や済南の張栄などは史天沢と拮抗する大軍閥であり、史天沢の厳実・張栄らに対する権限は限定的なものであったと考えられる。実際に、金朝が滅亡した後の1234年に「三万戸」は「七万戸」に増員となり、厳実は史天沢と同格の「東平路行軍万戸」とされている[4]

また、1258年より第4代皇帝モンケ・カアンの南宋親征が始まると、史天沢は李進に代表される華北各地から選りすぐった精鋭軍を率いてモンケ軍に加わった[5][6]。一方、モンケの弟クビライが率いる別働隊には東平路行軍万戸厳忠済・保定軍民万戸張柔・真定万戸史権・曲陽行軍万戸邸浹・大名路行軍万戸王文幹・山東行尚書省兵馬都元帥張宏・水軍万戸解誠・水軍万戸張栄実らが従軍していたが、これらの漢人世侯の本拠地はほとんどがかつての「五路万戸」に属するものであった[7]。モンケの死後、クビライとアリクブケとの間に争いが起こると(アリクブケの乱)、史天沢はモンケ軍を離脱してクビライの元に馳せ参じ、クビライの擁立に大きく貢献した[8]。即位直後のクビライは頼りになる手勢が少なかったため、史天沢率いる漢人精鋭部隊を中心に「武衛軍(後の侍衛親軍)」を組織し、これをクビライの直属護衛部隊とした[9]。また、内戦中最大の激戦となったシムルトゥ・ノールの戦いにも参加しており、クビライ直属の中軍の左翼部隊を率いたと伝えられている[10]。なお、この時史天沢と対になる右翼部隊を率いたカルジン(Qalǰin>線真)は、後に史天沢とともに中書右丞相に任命されて初期クビライ政権の中枢を担っている[11]。また、史天沢の長子である史格は質子としてモンゴル高原に長く滞在した経歴があったためか、アリクブケと行動を共にして父史天沢とは袂を分かっていたようである[12]

1262年2月にはその継承争いの最中に山東地方の漢人軍閥である李璮の乱が起こるが、史天沢はこれに呼応せず、むしろ鎮圧に功績を立てた。李璮討伐のためにモンゴル王族カピチ(親王 哈必赤:ジョチ・カサル家の王族)[13]が史天沢は幕僚として扈従しこれを輔佐した[14]。『元史』巻二百六 叛臣列伝の李璮の条によると、李璮が捕縛されて討伐軍の司令であった王族カピチの帳幕の前に引き出されたが、史天沢は「宜しく即ちに之を誅し、以て人心を安んず」と言って、李璮は直ちに誅殺されたという[15]

クビライが第5代のカアンに即位すると、宰相に任じられて漢人の軍閥解体と華北の再編、漢人の人材推挙やモンゴルの漢化政策などで多くの功績を立てた。1268年から本格的に始まった南宋攻略戦である襄陽の戦いでは、アジュと共に将軍の一人として参戦した[16]。南宋の名将の呂文煥の抵抗には手を焼き、足かけ5年を費やしたが、投石器の攻撃などで襄陽の重要な支城である樊城を陥落させ、そして呂文煥の妻子を使った調略により(呂文煥は襄陽の兵糧問題から妻子を城外に追い出していたが、史天沢はそれを保護していた)、1273年には呂文煥とその軍勢を投降させるという大功を立てた。

1274年、クビライより南宋攻略の大軍を率いる総司令官に任命されたが、高齢のためにまもなく病に倒れた。このため、クビライにバヤンを総司令官にするように推挙した。1275年に死去。享年74。

クビライはその死を惜しみ、鎮陽王に封じた。子の史格が後を継ぎ、史家は元朝を支える名門貴族として続くことになる。

ペルシア語史料での記述

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モンゴル帝国において準モンゴル人として遇されていた史天沢は、『集史』などのペルシア語史料ではサムカ・バアトル(Samka ba'tur/سمکه بهادر)の名前で記されている。この人名は漢文史料では「三哥抜都(『元史』巻1太祖本紀)」とも記されており、史天沢が史秉直の三男(三哥)であることからつけられた通称であると考えられている。このことは、『元史』巻99宿衛の条で「武衛軍」編成に功績のあった人物(=史天沢)が「万戸三哥」と表現されていることからも確認される[9]

『集史』「クビライ・カアン紀」は史天沢=サムカ・バアトルが南宋遠征の司令官に任命されたが、その職をバヤンに譲った経緯を以下のように記している。

[バヤンが]そこ(クビライ・カアンの下)について、カアンは30トゥメンのモンゴル軍と80トゥメンのヒタイ(漢)軍を整えられた。そして、ヒタイ人のアミールの一人でチャガン・バルガスンの出身であり、モンケ・カアンの治世にイルになっていて、正しい心で仕えているサムカ・バアトルをヒタイ軍の長に任命なされた。前述のバヤンと、ウリヤンカイ部族出身でスベエデイ・バアトルの孫のアミール、アジュをモンゴル軍の長に任命された。[そして次のように]命じられた。「全軍の長は、サムカ・バアトルである。なぜなら、彼の紀律は厳しく、いつもその務めをよく果たしたからだ」と。彼等をナンギャス(南宋)の方へ派遣した。サムカは病のために途中で戻り、両軍どちらの長もバヤンとアジュになった。 — ラシードゥッディーン、『集史』「クビライ・カアン紀」[17]

真定史氏

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高祖某
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
史倫
(季)
 
 
 
 
 
佚名
(叔)
 
 
 
 
佚名
(仲)
 
 
 
 
 
 
 
佚名
(伯)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
史成珪
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
佚名
 
 
 
 
 
 
 
佚名
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
史進道
 
 
 
 
 
史秉直
 
 
 
 
 
 
 
 
史懐徳
 
 
 
 
 
 
 
佚名
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
史天沢
 
史天安
 
 
 
 
史天倪
 
 
 
 
 
史天祥
 
 
 
 
 
 
 
史天瑞
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
史格
 
史枢
 
史楫
 
 
 
史権
 
 
 
 
 
史燿

脚注

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  1. ^ 井戸1982, p. 40.
  2. ^ 『元史』巻2太宗本紀,「己丑、太宗即位、議立三万戸、分統漢兵。天沢適入観、命為真定・河間・大名・東平・済南五路万戸」
  3. ^ 井戸1982, p. 41.
  4. ^ 井戸1982, p. 42.
  5. ^ 井戸1982, p. 45.
  6. ^ 池内1984, p. 5-6.
  7. ^ 池内1984, p. 10-11.
  8. ^ 池内1984, p. 18.
  9. ^ a b 池内1984, p. 19-20.
  10. ^ 池内1984, p. 27.
  11. ^ 池内1984, p. 28-29.
  12. ^ 松田2013, p. 8.
  13. ^ 『元史』では合必赤大王、親王 哈必赤(または親王 合必赤)、諸王 哈必赤などとして表れ、クビライ幕下のモンゴル王族のひとりとして活躍している。しかしながら『元史』巻一百七 宗室世系表には「諸王 哈必赤」の名前が無く、出自が不明である。1261年モンゴル帝国帝位継承戦争におけるクビライ軍とアリクブケ軍との最大の戦闘となったいわゆるシムルトゥ・ノールの戦いにおいて、クビライ軍の左翼がテムゲ・オッチギン家の当主タガチャルカチウン家の当主クラクル、同家のナリン・カダアンベルグテイ家当主ジャウドゥらが配され、右翼にはコンギラト駙馬家当主ナチン、同部族のカガイ、オゴン、オロチン、ムカリ国王家当主クルムシほか諸部族長家の当主たちなどが配されている。『元史』巻百二十 朮赤台伝によると、このうちカピチは中軍に配されていた(「於是戦于石木温都之地。諸王哈丹・駙馬臘真与兀魯・忙兀居右、諸王塔察児及太丑台居左、合必赤将中軍」)。このため、クビライに組した東方三王家のうちジョチ・カサル家の王族のみが抜けているため、クビライの中軍にいる王族カピチはジョチ・カサル家の王族ではないかと推測される。(杉山正明 2004, p. 114-116)
  14. ^ 杉山1996B, p. 72.
  15. ^ 杉山1996B, p. 75.
  16. ^ 杉山1996B, p. 87.
  17. ^ 訳文は堤1996,77頁より引用

参考文献

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