座標: 北緯22度19分29秒 東経114度11分21秒 / 北緯22.32472度 東経114.18917度 / 22.32472; 114.18917

宋王台(そうおうだい、宋王臺、Sung Wong Toi)は、香港にある史跡。南宋端宗衛王の2人の幼君が休息をとった場所として言い伝えられる。本来は旧啓徳空港の中に石碑があったが、現在は「宋王台花園」に移設されている。

宋王台
各種表記
繁体字 宋王臺
簡体字 宋王台
拼音 Sòng Wáng Tái
ラテン字 Sung Wong Toi
発音: ソン・ウォン・トイ
広東語発音: Sung Wong Toi
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破壊前の宋王台
宋王台花園の牌
宋王台花園

概要

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1276年軍が南宋に侵攻し、首都臨安は陥落、南宋の恭帝は降伏して俘虜となった。これにより南宋は事実上滅亡した。

しかし、文天祥陸秀夫張世傑らは皇族とともに南方に落ち延び、元に対する抵抗運動を展開した。彼らは恭帝の兄の端宗を、その病死後はその弟の衛王を皇帝に立てたが、福建から広東と南へと追い詰められた末、1279年崖山の戦いで敗北し、南宋は名実ともに滅亡した。

九龍湾に面した標高35mほどの小高い山は、その抵抗運動のさなかに端宗と衛王が休息を取った場所と言われるようになり、誰からともなく「聖山」「宋王台」と呼ばれるようになった。

後年、石碑が建てられ、歴史の犠牲になった2人の幼君を偲ぶ場所として知られるようになった。現在ある石碑は「嘉慶丁卯重修」とあり、1807年に再建されたものである。

香港が英国植民地になってから、周辺が採石場となったが、住民の請求によって宋王台の保全が唱えられ、1896年に「宋王台条例」が制定され史跡となった。第二次世界大戦香港を占領した日本軍は、1942年に啓徳空港の拡張工事のため、石碑のある小山を破壊したが、工事の完成前に終戦を迎え、宋王台は石碑のみ残された。

大戦後にも、英国の香港総督府が空港の拡張計画を止めなかったため、宋王台の石碑は馬頭囲の宋王台花園(1960年開園)に移設された。このときに石碑は元来の3分の1の大きさにまで縮小していた。

香港国際空港ランタオ島に開港し、啓徳空港が廃港になって以後、宋王台石碑を当初の場所に戻す計画も取りざたされている。

宋皇台通り

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宋王台花園の前の通りは「宋皇台通り」である。宋王台は元来は「宋皇台」だったが、クビライが「宋王台」に改めさせたという説がある。それに従い「宋皇台通り」と命名された。

外部リンク

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