宮城 堅甫(みやぎ かたよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将織田氏豊臣氏の家臣。六角氏の奉行人を務めた宮木賢祐は別人であるとされる[1]

 
宮城 堅甫
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 不詳
改名 十(幼名)、堅甫、宗賦(号)
別名 右兵衛尉、宮木入道
主君 織田信長羽柴秀吉
氏族 宮城氏大江姓
父母 父:宮城重甫
正重文利(宗清)、女(松本長甫室)、女(鯰江貞勝室)、女(三上士秀室)、女(宮城豊盛室)、養子:豊盛
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略歴

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宮城対馬守重甫の子として生まれる[2]。はじめ織田信長に仕え、本能寺の変後は羽柴秀吉の家臣となる[1]

天正14年(1586年)7月、黒田孝高とともに西国大名のもとへ赴き、島津氏牽制を要請した[2][3]土佐出張中に同地で死去[2]

脚注

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  1. ^ a b 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年11月1日、471頁。ISBN 9784642014571 
  2. ^ a b c 阿部猛西村圭子『戦国人名事典 コンパクト版』新人物往来者、1990年9月10日、752頁。ISBN 4404017529 
  3. ^ 高柳光寿、松平年一『戦国人名辞典 増訂版』吉川弘文館、1973年、244頁。