宮城豊盛

安土桃山時代の武将、大名。江戸時代初期の旗本。豊臣家の譜代家臣。徳川秀忠の御伽衆。従五位下丹波守

宮城 豊盛(みやぎ とよもり)は、安土桃山時代武将大名江戸時代初期の旗本豊臣家の譜代家臣。徳川秀忠御伽衆。初名は定勝(さだかつ)で[7]慶長元年(1596年)に豊臣姓を与えられた時も、定勝を名乗っていた[7]

 
宮城 豊盛
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 天文24年(1555年
死没 元和6年5月29日1620年6月29日
改名 宮城定勝(長次[2])→豊臣定勝→宮城豊盛
別名 宮木豊盛[5]、宮木長次、通称:長次郎、丹波守、法名:宗広(宗九)
墓所 金勝山阿弥陀寺滋賀県栗東市東坂)
官位 従五位下丹波守
幕府 江戸幕府
主君 豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠
旗本
氏族 宮城氏大江姓
父母 義父:宮城堅甫(宗賦)
兄弟 正重文利(宗清)松本長甫室)、鯰江貞勝室)、三上士秀室)、(宮城豊盛室)、豊盛
宮城堅甫の娘
女(宮城頼久室)、頼久[6]
テンプレートを表示

生涯 編集

近江国の人。織田信長の家臣の宮城堅甫の一族で、その娘を娶って婿養子となった[8]。宮城堅甫は後に羽柴秀吉に仕え、豊盛も秀吉に仕えて譜代の家臣となった[3]

天正13年(1585年)3月19日、山城・近江の百姓が検地のため逃散したので、秀吉は片桐貞隆・豊盛・森吉成らに命じて、百姓を還住させるために、未進の年貢を猶予すると周知させた[9]

同年7月2日、四国の役阿波国での戦況を豊盛が報告したのを受けて、秀吉は翌3日に出陣すると決定する[10]が、豊臣秀長の諫止により中止となった。29日、秀吉の命令で、阿波一宮城脇城の攻囲軍に米を輸送した[11]

天正14年(1586年)8月3日、秀吉は黒田孝高・豊盛(宮城堅甫[7])を九州に出張させて、大友宗滴義統父子及び立花統虎らに、豊前に出陣することを告げ、それまで守備を固めるように命じた[12]

文禄2年(1593年)頃、『駒井日記』によると豊後国の内のいずれかに所領を与えられた[7]。文禄3年(1594年)、日隈城(隈城)を築城。この頃、豊後国日田郡太閤蔵入地代官であった[7]

慶長元年(1596年)5月11日、豊臣姓を授かり、従五位下丹波守に叙任され、豊臣定勝を名乗る[7][13]。慶長2年頃に知行5,000石[7]

慶長3年(1598年)8月18日、慶長の役の最中に秀吉が亡くなると、25日、五大老徳川家康前田利家は秀吉の喪を秘密にして軍撤収使として徳永寿昌と豊盛を朝鮮に派遣した[1][14]。これら代官は日本軍諸将と協議して、明と講和し、無事に全軍と撤収した[14][16]。帰朝後、秀吉の遺物国吉の刀を受領した[7]。この年か翌年に、摂津国と豊後国の内で併せて1万石に加増された[7]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の役では西軍に与して大坂城平野橋を警護したが、7月23日に会津征伐出向中の徳川家康山崎家盛(婿養子の頼久の実兄)と共に石田三成の挙兵を通報する[17][1]などして、東軍にも内通していた。このため戦後に所領を半減されて5,000石となるが、改易はされなかった[7]

慶長10年(1605年)、豊臣秀頼の命で、京の金戒光明寺阿弥陀堂の再建の普請奉行を務めた。

慶長14年(1609年)に婿養子の頼久が先だって死去したため、豊盛が孫の十二郎(宮城豊嗣)の後見となり、二人して駿府の家康のもとに伺候し、以後は徳川家に仕えた。11月、豊盛の妻と娘を駿府に住まわせる[1]

慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に孫に代わって出征し、備前島の備に入った。11月24日、大坂城からの鉄砲で鼻から頬にかけて負傷し、徳川秀忠朝比奈正重を下して傷の様子を尋ねさせている[18]。翌年の夏の陣にも従軍し、玉造口に配置された。

元和元年(1615年)、慈照寺(銀閣寺)再建の普請奉行を務め、家康の没後は秀忠の御伽衆とされた。

元和5年(1619年)、京都知恩院の山門および経蔵の普請奉行を務めて京都に滞在。元和6年(1620年)に同地で死去した。享年67歳。墓所は近江国金勝谷こんぜだにの阿弥陀寺。

脚注 編集

  1. ^ a b c d 堀田 1923, p. 324.
  2. ^ 子孫の宮城和中の系図に長次に名を改めたとある[1]
  3. ^ a b 桑田 1971, p. 103.
  4. ^ 堀田 1923, p. 317.
  5. ^ 姓は「宮木」とするものもあり[3]、古文書にも宮木長次郎との署名が多いが、『寛政重修諸家譜』では家祖が陸奥国宮城の住人であったことが姓の由来としている[4]ので、略字か。
  6. ^ 山崎片家の子。豊盛の婿養子。
  7. ^ a b c d e f g h i j k 高柳 & 松平 1981, p. 244.
  8. ^ 堀田 1923, p. 318.
  9. ^ 大日本史料11編14冊74頁。
  10. ^ 大日本史料11編26冊補遺500頁および11編16冊307頁。
  11. ^ 大日本史料11編27冊補遺500頁、11編26冊補遺544頁、11編17冊421頁。
  12. ^ 史料綜覧11編912冊133頁。
  13. ^ 『寛政重修諸家譜』に慶長4年4月16日とあるのは誤り[7]
  14. ^ a b 史料綜覧11編913冊171頁
  15. ^ 堀田正敦『国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重脩諸家譜 第6輯』國民圖書、1923年、746-747頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082716/382 国立国会図書館デジタルコレクション 
  16. ^ 『寛政重修諸家譜』の徳永寿昌の項に、朝鮮行きは五奉行等の命令であり、秀吉の遺命であると言い含められが、寿昌はそのような大命が全うできるか困惑し、家康に上奏してその指示を仰ぎ、家康の指示で現地に詳しい宮城豊盛を連れて行ったとしている[15]
  17. ^ 史料綜覧11編913冊236頁。
  18. ^ 堀田 1923, pp. 324–325.

参考文献 編集