宮瀬富之
日本の彫刻家
宮瀬 富之(みやせ とみゆき、1941年(昭和16年)10月4日[1] - )は、日本の彫刻家[1]。本名は宮瀬富夫[1][2]。日本芸術院会員。
宮瀬 富之 (みやせ とみゆき) | |
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生誕 |
宮瀬 富夫[1][2] 1941年10月4日(83歳)[1] |
国籍 | 日本 |
著名な実績 | 彫塑 |
代表作 | 「源氏物語絵巻に想う」(2009年)日本芸術院賞[3][4] |
受賞 | #来歴参照 |
活動期間 | 昭和後期 - 平成時代[1] |
影響を受けた 芸術家 | 松田尚之[1] |
来歴
編集1942年(昭和16年)10月4日に生まれる[1]。松田尚之に師事した[1]。
1967年(昭和42年)「ポーズする女」が日展に入選[1]、その後1972年(昭和47年)「水たまり」が日展日彫賞[1]、翌1973年(昭和48年)「風のよそおい」が日展特選を受賞[1]。
1984年(昭和59年)に大阪成蹊短期大学の教授に就任、のち同短大の大学長になる[1]。
1999年(平成11年)には金沢美術工芸大学の教授も兼任した[1]。
2005年(平成17年)の第37回日展に出品した「はんなりと石庭に」は内閣総理大臣賞を受賞した[1][5]。
2009年(平成20年)、第40回改組日展に出品した「源氏物語絵巻に想う」が日本芸術院賞を受賞[1][3][4]。
2013年(平成25年)5月23日現在、日展理事[6]。
2014年(平成26年)には東京都葛飾区柴又にある山田洋次ミュージアムで来場者400万人達成式典に合わせて設置された山田洋次の胸像を作成した[7][8]。
2022年(令和4年)、日本芸術院会員に選出される。
主な制作物
編集作品名 | 製作年 | 備考 | 出典 |
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「全国女子駅伝 皇后盃」 | 1989年(平成元年) | 西京極総合運動公園正面玄関前 | [9][10] |
「青春の軌跡」 | 1989年(平成元年) | 西京極総合運動公園野球場北側 | [9] |
「麦藁帽子と少女」 | 1993年(平成5年) | 京都府立植物園中庭 | [11] |
「源氏物語絵巻に想う」 | 2009年(平成20年) | 平成20年度(第65回)日本芸術院賞 / 日本芸術院蔵 | [1][3] |
「山田洋次」胸像 | 2014年(平成26年) | 山田洋次ミュージアム入り口 | [7][8] |
「巨大な輝き」 | 不明 | 琵琶湖疏水記念館前 |
脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q デジタル版 日本人名大辞典+Plus. “宮瀬富之 みやせ とみゆき”. コトバンク. 2017年6月23日閲覧。
- ^ a b “第88回通常総会報告”. 公益社団法人日本彫刻会. 2017年6月23日閲覧。
- ^ a b c “作品詳細”. 日本芸術院. 2017年6月23日閲覧。[リンク切れ]
- ^ a b “芸術院賞に井上ひさしさんら9氏”. 朝日新聞. (2009年3月20日)
- ^ “大臣賞受賞者一覧(昭和33年~現在)”. 日展. 2017年6月23日閲覧。
- ^ “会員名簿”. 日展 (2013年5月23日). 2013年9月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年6月23日閲覧。
- ^ a b “山田洋次監督、胸像に「気恥ずかしい」 ミュージアムで除幕式”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社). (2014年11月9日)
- ^ a b “山田洋次監督、テレテレ胸像除幕式「普通死んだ後にできるもの」”. サンケイスポーツ (産経新聞社). (2014年11月9日)
- ^ a b “西京極散策”. 京都新聞社 (2004年3月1日). 2017年6月23日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 47NEWS. (2013年8月26日). http://www.47news.jp/photo/697325.php+2017年6月23日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 京都府立植物園 (2004年9月17日). “芸術の秋 到来!”. 京都府. 2017年6月23日閲覧。
外部リンク
編集- 宮瀬富之 - @ART