寂超

平安時代末期の官人・歌人・僧侶

寂超(じゃくちょう)は、平安時代後期の僧侶貴族歌人俗名藤原 為経(ふじわら の ためつね)。藤原北家長良流、丹後守藤原為忠の三男。

 
寂超 / 藤原 為経
時代 平安時代後期
生誕 永久3年(1115年)頃[1]
死没 不明
改名 盛忠(初名)→為経→寂超
官位 正五位下皇后宮少進
主君 崇徳天皇
氏族 藤原北家長良
父母 父:藤原為忠
母:橘大夫娘(待賢門院女房)
兄弟 為盛為業寂超頼業、兼豪、忠宴、昌忠、藤原光房室、藤原俊成室、
平忠盛室?
藤原親忠娘・美福門院加賀
隆信源通能室、藤原実清
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経歴

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鳥羽院政期初頭に六位蔵人を務め、長承3年(1134年従五位下に叙爵する。のち、筑前権守備後守長門守等の地方官や内蔵助を務めた。永治元年(1141年藤原得子皇后に冊立されると、岳父・藤原親忠の妻が得子の乳母(伯耆)であった縁からか、その皇后宮少進に任ぜられた。

康治2年(1143年)正月に正五位下に至るが、5月10日に比叡山に登って出家大原に隠棲する。日想坊と号し、長門入道とも呼ばれた、法名寂超。同じく出家した兄弟の寂念寂然と共に大原三寂常盤三寂と呼ばれた。

人物

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和歌に優れ私撰集に『後葉和歌集』があり、『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に15首が入首。『歌仙落書』の中に、弟・寂然と共に秀歌例として三首が掲げられ「風体さびたるさまなるべし。明石の浦の霧がくれに海人の釣舟きえ行くをみるとや云ふべからむ(=歌の様が古風で趣がある。まるで明石の浦の霧が立ち込める中を海人の釣舟が消えていくのをみるようであるというべきであろう)」と評されている。また、『今鏡』の作者の有力候補とされる[2]

官歴

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系譜

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脚注

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  1. ^ 井上宗雄「常磐三寂年譜考」『平安後期歌人伝の研究』笠間書院、1978年
  2. ^ 『今鏡』の作者を寂超とする説には、和田秀松『本朝書籍目録考証』、山口康助「今鏡作者攷」(『国語と国文学』1952年6月)、太田晶次郎「桑華書志所載古蹟歌書目録」(『日本学士院紀要』一二の三、1954年11月)、竹鼻績『今鏡(下)』講談社学術文庫、がある。
  3. ^ a b 『時信記』
  4. ^ a b 『中右記』
  5. ^ 『丹後守為忠朝臣家百首』
  6. ^ 『木工権頭為忠朝臣家百首』
  7. ^ 井上[1960: 103]
  8. ^ 『宇槐雑抄』
  9. ^ 井上[1960: 104]
  10. ^ a b 『本朝世紀』

参考文献

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  • 井上宗雄常磐三寂年譜考 : 附・藤原隆信略年譜」『国文学研究』第21巻、早稲田大学国文学会、1960年2月、102-116頁、ISSN 0389-8636NAID 120005480282CRID 1050001202499987200