富岡 秀高(とみおか ひでたか、生没年不詳)は、戦国時代後期の武将上野国小泉城(現在の群馬県大泉町)城主。小山高朝の次男。初名は小山 重朝(おやま しげとも)。富岡秀親(清四郎、主税助)の後を継いで、秀高(六郎四郎、対馬守)を名乗り、後に出家し対馬入道と号した。別名、秀朝(彦四郎)とも。子に富岡秀長(六郎四郎)、富岡氏高(新三郎)、兄に小山秀綱、弟に結城晴朝がいる。

富岡氏は結城氏の庶流であり、上野赤井氏に臣従していた。永禄5年(1562年)長尾景虎(上杉謙信)の上野侵攻により赤井氏が没落すると、その旧領は館林領と小泉領とに二分され、館林城長尾当長に与えられた。しかし小泉領は富岡氏が勢力を伸ばし、景虎はこれを認めている。しかし永禄9年(1566年横瀬成繁成田氏長が上杉方から北条方に鞍替えした為、上杉方として両氏と抗争を繰り返すものの、永禄10年(1567年)4月には北条氏康に通じている[1]永禄12年(1569年)には長尾当長までも北条方となり、富岡氏に隣接する有力国衆は全て北条方となり、越相同盟を迎えている[2]

北条氏に属するにあたり、北条方の小山秀綱に依頼し(宗家である結城晴朝は上杉氏と結んで敵対関係にあった)その弟の重朝が富岡秀親(清四郎)の後継ぎとなり、秀高(六郎四郎)と名乗った。翌年(1570年)、北条氏政から家督相続を祝されている。

天正6年(1578年)の御館の乱では、秀高(六郎四郎)は、北条氏邦傘下として上杉景虎救援に向かい[3]、天正9年(1580年)には駿河まで出陣し、武田氏と戦っている[3]

天正10年(1581年)には、織田家臣・滝川一益に服属したが、同年6月の本能寺の変を一益に伏せられてしまった為[3]神流川の戦いにはどちらにも参陣できず、翌月北条氏直より不審を買っている[3]

天正11年(1582年)、長尾顕長由良国繁の兄弟が反北条方に寝返り沼尻の合戦が勃発、佐竹義重佐野宗綱等が何度も小泉城に攻め寄せるがこれを全て撃退し、天正12年(1583年)、北条氏直から、秀長(六郎四郎)、氏高(新三郎)兄弟へ感状が送られている[3]。この時、秀高は隠居し対馬入道と呼ばれており、秀長(六郎四郎)が跡を継いでいる。翌年、北条氏より新恩知行が隠居分として発給されている。

秀高(対馬入道)は隠居後も健在であり、天正18年(1590年)の小田原征伐の際には新田金山城を守備している。没年不詳。

脚注編集

  1. ^ 『戦国大名と外様国衆』(第十章 富岡氏の研究)黒田基樹、文献出版 1997年
  2. ^ 群馬県史
  3. ^ a b c d e 富岡家文書

参考文献編集

  • 『戦国大名と外様国衆』(黒田基樹、文献出版、1997年)