寺田 市正(てらだ いちまさ、1876年明治9年〉4月25日[1] - 1958年昭和33年〉8月21日[2])は、日本の衆議院議員政友本党立憲民政党立憲政友会)、拓務政務次官川内市長

寺田 市正
てらだ いちまさ
生年月日 1876年4月25日
出生地 日本の旗 日本鹿児島県薩摩郡水引郷五代村
没年月日 (1958-08-21) 1958年8月21日(82歳没)
死没地 日本の旗 日本鹿児島県川内市
出身校 明治法律学校
前職 会社員

当選回数 7回
在任期間 1924年 - 1946年

在任期間 1940年 - 1946年

当選回数 1回
在任期間 1955年 - 1958年8月21日
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経歴

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鹿児島県高城郡水引郷五代村(現在の薩摩川内市五代町)に寺田宗七の長男として生まれた[3][4]。小学校教師を務めた後、上京して明治法律学校(現在の明治大学)で学び、1900年(明治33年)に卒業した。卒業後の2年間、明治法律学校の舎監を務め、やがて時事新報の記者となった[4]1915年大正4年)、時事新報社を退社し、自由通信社の主幹となった[4]

1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。以後、連続当選回数は7回を数えた。その間、平沼内閣で拓務政務次官を務めた[5]。また1940年(昭和15年)には初代川内市長に就任し、1946年(昭和21年)まで在任した[6]

同年、大政翼賛会の推薦議員のため公職追放となった[7]1951年(昭和26年)に追放解除[8]

追放解除後の1955年(昭和30年)に再び川内市長を務め、死去するまでその職にあった[6]

脚注

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  1. ^ 衆議院『第四十九回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1924年、34頁。
  2. ^ 『新訂政治家人名事典』
  3. ^ 川内郷土史編さん委員会 1980, p. 1005.
  4. ^ a b c 『三州名士録大鑑 上巻』pp.182-183
  5. ^ 『人事興信録』
  6. ^ a b 川内市年表
  7. ^ 『朝日新聞』1946年2月10日一面。
  8. ^ 『朝日新聞』1951年8月7日朝刊二面。

参考文献

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  • 市来政尚『三州名士録大鑑 上巻』三州名士録刊行会、1930年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第13版(下)』人事興信所、1941年。 
  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。 
  • 川内郷土史編さん委員会『川内市史 下巻』川内市、1980年。