小泉 忠之丞 秀明(こいずみ ちゅうのじょう ひであき)は、江戸時代後期(天保~享和年間)の武士・武人。小泉家の先祖は、武田家家臣松見彦右エ門秀利(初名:若狭秀利)である。松見家七代で大熊村に居住していた小口笹右エ門秀安の次男として生まれた忠之丞秀明であるが、事情があって母方の里である小和田村に移り住み、母方の家苗である小泉を名乗った。これより、信州上諏訪小和田村(現在の長野県諏訪市清水)の小泉家初代となる。高島藩で召し抱えられた際、はじめは藩主の御道具持であったが、その後、御先手となる。

※「小泉忠之丞秀督」とタイトルにあるが、これは誤りであり、正しくは秀明である。秀督は、小泉家二代目小泉忠佐久秀督のことである。

小泉忠之丞秀明は、荒木流武芸の免許皆伝者であり門弟は三百余人有と記載される。荒木流始祖である荒木夢仁斎秀縄から数え十二代目の免許皆伝者である。なお、忠之丞に免許を授けた者は、堀田嘉●と記載があるが出自は不明である。

八剣(八剱)神社入口近くの山形屋仁左エ門の娘をめとり、二男一女をもうける。享和二年四月三日死去。行年五十九歳。

高島藩のお家騒動として「二の丸騒動」があるが、この時に家老の諏訪頼保(通称大介)の介錯をしたのが小泉忠之丞秀明である。藩主からつかわされた刀で見事に打ち首をしたため褒美としてその刀を頂いたという言い伝えがある。なおその刀は、小泉家では妖刀としておそれられてきたため、明治期に諏訪大社に奉納している。

著書である「軍旅侍功鈔」(天保12年/1841年)は、アメリカ議会図書館蔵日本古典籍4037に収録されている。本書が米国に渡った経緯は不明である。

小泉家は、武田家断絶後の信州上諏訪で、江戸から平成時代の数百年間にわたり、戦と平和の狭間で奔走し、六代当主小泉清秀秀至の死去によってその歴史に幕を閉じている。なお、日本国内で企業のコンサルティングをしている岩崎重国氏は小泉清秀氏の孫にあたる。