小笠原 長住(おがさわら ながずみ、寛永6年(1629年) - 宝永5年(1708年)6月14日)は、江戸時代初期の旗本船手頭小笠原信盛の嫡男。妻は向井忠勝の娘。後妻は佐藤吉次の娘。子にに小笠原信光、小笠原長成らがいる。初名は信尚、別名に信賢、長義。通称は彦大夫。

生涯編集

寛永17年(1640年)、将軍徳川家光に拝謁する。正保3年(1646年)7月6日に小姓組番士に列し、慶安2年(1649年)、徳川家綱日光東照宮参詣に供奉する。同3年(1650年)9月3日に西の丸勤務となり、のち本丸に戻る。万治元年(1658年)閏12月19日より進物の事を役し、寛文10年(1670年)4月18日に船手頭となり、同年12月28日布衣着用を許可される。同11年(1671年)12月12日に家督を相続し、上総国周淮郡2500石のうち2200石を知行し、残り300石を弟の小笠原長貞(三左衛門)に分知した。天和2年(1682年)4月21日上野国新田郡邑楽郡の内に400石を加増される。元禄4年(1691年)6月19日同国望陀郡に移される。宝永3年(1706年)6月13日に病気のため寄合に移り、船手組1隊が削減された。同4年(1707年)7月21日に致仕する。法名は空心。

参考文献編集