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小野 滋野(おの の しげの、生没年不詳)は、奈良時代貴族左京大夫小野竹良の子。官位従五位下豊前守

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経歴編集

宝亀8年(777年)6月に第14次遣唐使の判官として第三船に乗船して渡し、7月に持節副使(大使代行)・小野石根が乗る第一船とともに揚州海陵県(現在の江蘇省泰州市)に漂着する。8月末に揚州大都督に到着するが、安禄山の乱の影響で駅舎が荒廃していることを理由に、観察使兼長吏・陳少遊中国語版の取り決めにより長安への入京者が60人(65人とも[1])に制限された。10月に85人で揚州を発つも、百余里進んだところで中書門下中国語版の勅牒(唐における皇帝の命令の一つ)により人数をさらに20人に制限されるが、遣唐使側の依頼により23人を追加して計43人が入京することになった。

翌宝亀9年(778年)正月に持節副使・小野石根、副使・大神末足らとともに長安に入城、まもなく宣政殿で拝謁の儀が行われるが皇帝は出御せず、3月になってから延英殿で皇帝・代宗に対面し、官や賞を授けられた。4月に中使・趙宝英とともに使節一行は長安を去り、6月に揚州に到着した。

滋野の乗る第三船は9月に唐使を乗せて揚州海陵県から出航するも、3日目に逆風を受けて座礁。1ヶ月ほどかけて船の修理を行うと、10月半ばに再び出航して1週間ほどで肥前国松浦郡橘浦(現在の長崎県上五島町あるいは玉之浦町付近)に帰着した[2]。帰着後すぐに入京が命ぜられていることから[3]、年内には朝廷に次第の報告を行ったか。なお、第一船・第二船は11月に出航し、第一船は遭難して判官・大伴継人ら41名のみが肥後国天草郡に漂着し、第二船は無事に薩摩国出水郡に帰着している[1]

宝亀10年(779年)4月に副使の大神末足・大伴継人、録事の上毛野大川らの渡唐の功労に対する叙位が行われ、滋野は従五位下叙爵した。また、同月に滋野らとともに渡海した唐使の孫興進・秦怤期が入京し、5月には光仁天皇への拝謁が行われた[4]。翌宝亀11年(780年)滋野は豊前守に任ぜられている。

官歴編集

続日本紀』による。

脚注編集

  1. ^ a b 『続日本紀』宝亀9年11月13日条
  2. ^ 『続日本紀』宝亀9年10月23日条
  3. ^ 『続日本紀』宝亀9年10月28日条
  4. ^ 『続日本紀』宝亀10年4月13日,5月3日条

参考文献編集