山田 孝堂(やまだ こうどう、文化13年(1816年) - 明治27年(1894年11月14日)は幕末明治の儒医。懐徳堂中井碩果門下。小野藩医兼帰正館教授、飾磨県学務総宰。

やまだ こうどう

山田 孝堂
生誕 文化13年(1816年
播磨国加古郡小野
死没 明治27年(1894年11月14日
兵庫県加東郡加古川町
国籍 日本の旗 日本
別名 通称:養節、名:綱、号:大隠、清逸[1]
出身校 懐徳堂
職業 小野藩医兼帰正館教授、飾磨県庶務課長、学務総宰、薬種商
時代 幕末明治
代表作 『孝堂先生遺稿』
影響を受けたもの 頼山陽中井碩果藤沢東畡
影響を与えたもの 高間六甲
子供 山田源太郎、窪田修佐
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生涯 編集

江戸時代 編集

文化13年(1816年)播磨国小野小野藩御用医師二人扶持の子として生まれた[2]天保大坂懐徳堂中井碩果に師事し、泊園書院藤沢東畡にも教えを受けた[2]。20代には経世論・医術を修め[2]京橋藩邸に塾を開いた[3]

安政初年江戸に出て昌平黌に寓し、斎藤拙堂の事業に興味を持って伊勢国を訪れたが、藩命により帰郷して藩医となった[2]。安政5年(1858年)6月帯刀を許され、御徒目付役御擬七人扶持となり、年末井上顕碩、真島道伯、神吉敬純等と免血丸を開発した[2]文久2年(1862年)藩校帰正館教授を兼ね、身分に関わらず医学・漢学を教えた[2]

明治時代 編集

明治維新の際、飾磨県庶務課長として村学設立に当たった[4]明治5年(1872年)学制発布の際、権大属・学務担当大野尚の依頼で学務総宰となり、県下16郡に各2人の担当者を選び、学校を設立して教員を集め、教則を下達した[4]。また、姫路藩絵師島琴江と『三才図会』を基に動植物・器械の効用・利害を解説する小冊子を作成した[4]

3年後中学校の完成を見て退官し、加古川宿に退隠し、薬種商を営んだ[4]。嗣子源太郎に家督を譲った後、地元民に読書を教え[5]、また養蚕業による土地開拓を奨励した[6]。明治27年(1894年)11月14日病没した[5]

著書 編集

  • 『孝堂先生遺稿』 - 1895年(明治28年)刊[7]

門人 編集

家族 編集

晩年妾を取った[1]

脚注 編集

  1. ^ a b 釜田 2010, p. 107.
  2. ^ a b c d e f 横田 2014, pp. 127–128.
  3. ^ 横田 2014, pp. 130–131.
  4. ^ a b c d 横田 2014, pp. 128–130.
  5. ^ a b 加東郡教育会 1923, p. 932.
  6. ^ 横田 2014, pp. 135–138.
  7. ^ a b c 横田 2014, p. 127.
  8. ^ 横田 2014.

参考文献 編集

  • 横山俊一郎「山田孝堂の学術と実践―幕末の懐徳堂・泊園塾と維新の〈実務家〉―」『文化交渉 : 東アジア文化研究科院生論集』第3巻、関西大学大学院東アジア文化研究科、2014年9月30日、125-139頁、ISSN 2187-4395NAID 120005742309 
  • 『加東郡誌』加東郡教育会、1923年。 NDLJP:978702/510
  • 釜田啓市『中井木菟麻呂『懷德堂水哉館先哲遺事』巻五・巻六・巻七翻刻』 1巻、大阪大学大学院文学研究科・文学部 懐徳堂研究センター、2010年2月28日。 NCID BB18632388https://hdl.handle.net/11094/24630