岩田鳴球
岩田 鳴球(いわた めいきゅう、本名:久太郎、 1874年(明治7年)7月30日 - 1936年(昭和11年)9月22日)は、日本の俳人。
来歴
編集石川県大聖寺町(現・加賀市)本町生まれ[1]。1894年高等商業学校(現・一橋大学)中退[1][2]。俳句を正岡子規[3][4]、高浜虚子に学んだ[5]。
三井物産に入社し[1]、1905年から三井物産台湾支店長として台湾に赴任。初の台湾俳誌『相思樹』の選者となり[5]、1906年から『相思樹』主筆[5]。
三井物産専務理事を経て[6]、1918年大本教に入信[3]。総務や出版局(現・天声社)局長、大正日日新聞編集局長[7][3]、第一天声社社長、統理補などを務めたが[8]、大本事件で、1936年に獄死した[5]。
編書
編集- 『大本略史 再版』第一天声社 1931年
脚注
編集- ^ a b c 「岩田 鳴球」『日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」+Plus』 。コトバンクより2024年4月9日閲覧。
- ^ 東京高等商業学校同窓会々員録 明治44年11月改
- ^ a b c 「岩田鳴球」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 。コトバンクより2024年4月9日閲覧。
- ^ 大聖寺の人物大聖寺地区まちづくり推進協議会 広報部会
- ^ a b c d 沈美雪『相思樹』小考--台湾最初の俳誌をめぐって日本台湾学会報 / 日本台湾学会『日本台湾学会報』編集委員会 編 (11), 233-246, 2009-05
- ^ 栗原彬「郷の立替え立直し-出口王仁三郎」年報政治学/33 巻 (1982)
- ^ 6,相次ぐ新刊天声社
- ^ 大本七十年史 下巻 図書 大本七十年史編纂会 編 大本, 1967