川村 隆(かわむら たかし、1939年12月19日 - )は、日本実業家東京電力ホールディングス取締役会長[1]みずほフィナンシャルグループ社外取締役[2]。元日立製作所取締役・代表執行役会長兼執行役社長、同相談役[3]。元日本経済団体連合会(経団連)副会長[3]

北海道函館市生まれ[4][5]。小学校から高校時代まで札幌市で過ごす[6][7][8]

父親は英文学者で元北海道大学教授の川村米一[4]

目次

来歴編集

北海道学芸大学(現北海道教育大学)附属札幌小学校[6]同附属札幌中学校[7]北海道札幌西高等学校を経て[5][8]1962年3月東京大学工学部電気工学科卒業[5][9]。在学中は原子力発電の研究に従事した[10]。1962年4月、日立製作所入社[5][11]

日立では電力設計部に所属[12]1972年に主任技師となり、関西電力姫路第二発電所の火力6号機(略称「姫6」)[11]中国電力島根原子力発電所1号機などの開発に従事[13]。東京本社火力技術本部を経て[13]、1991年に日立工場副工場長となり、翌年工場長に就任[14]1995年に常務取締役(営業担当)、1999年副社長[15]2003年に退任し、日立ソフトウェアエンジニアリング日立プラントテクノロジー日立マクセルの各会長を務める[16]

2009年3月、前年のリーマンショック等の影響で、大幅な赤字を出していた本社の経営再建のため[17][18]、代表執行役会長兼執行役社長に就任[18][19]。就任後は、日立情報システムズなど上場子会社の完全子会社化等の経営効率化[18][20]、テレビ事業撤退等の不採算部門整理[18][21]、公募増資の実施による自己資本比率の回復など[18][22]、経営再建に務める[18]。2010年会長職に専念し、同年火力発電設備事業分野における三菱重工業との統合を決定[23]。これらの改革が功を奏し、2012年3月期には、純利益が過去最高を計上するなど[18]、約3年で経営は立ち直り[18][24]、「V字回復」と呼ばれた[18][25]。2013年に会長を退き、2016年6月まで相談役を務めた[24]

この間、日本経済団体連合会(経団連)副会長も務め[25][26]、2014年に退任した米倉弘昌会長の後任の最有力候補とも言われたが[26]、就任を固辞し[25]、自身も米倉と共に退任した[25]

2017年3月、東京電力ホールディングス会長の就任が発表される[27]。川村の起用については、東電の株の大半を保有する政府の強い意向があったとされ[28]、日立の経営を立て直した手腕を生かし、福島第一原発の廃炉や賠償費用の確保に向けた改革の着実な実行を図る狙いがあると見られる[27][28][29]。同年6月23日の東電定時株主総会において取締役(社外取締役)に選任され、総会後の取締役会において取締役会長に選定された。

人物・エピソード編集

  • 日立入社後は長年電力設計部に所属し、電力会社向けの発電機の開発等に従事した。発電機の熱損失を最小化するための、大型コンピュータを使っての3次元の電磁界解析等、学術的な性格の強い仕事も多く、これらの研究成果を英語の論文にまとめ、アメリカ電気電子学会(IEEE)の発行する有名ジャーナルに発表したこともある。この際アメリカニューヨーク州アルバニーで講演し、世界各地から集まった技術者と歓談したことが思い出深いという[12]
  • 日立製作所副社長在任中の1999年7月23日、北海道出張のため羽田発新千歳行きの全日空61便に搭乗した際、ハイジャックに遭遇した(全日空61便ハイジャック事件)。飛行機マニアの犯人に機長が殺害された後、犯人の未熟な操縦で墜落の可能性が高くなり、「もうだめだ」と覚悟を決めた時、偶然乗り合わせた非番のパイロットらの機転により、無事着陸することが出来た。この経験を通じて、人はいつ死ぬか分からないのだから、毎日を大切に生きなければと自覚するようになり、残りの人生をどう生きるか真剣に考えるようになったという。また、「ラストマン」(最終責任者)の意識を改めて強く持つようになり、自分は果たして墜落の危機を救ったパイロットのように、「ラストマン」の役割を果たす機会があるのだろうか、と思ったと同時に、会社は彼のような「ラストマン」を育てておかなければならない、とも思ったという[18][30]。当時のハイジャックへの基本の対応マニュアルにある「犯人の言うことを聞く」に違反していた、パイロットらの機転によって助かったことから、緊急事態では自分で考え自分の責任で行動する「ラストマン(最終責任者)」の意識を強く持つようになった
  • 日立のトップとして思い切った改革を次々と行い、会社を業績回復に導いたが、シーメンスなどの国外のライバル企業に比べるとまだ十分なレベルとは言えず、より一層の改革が必要だという。「熾烈な競争に勝ち抜くための変革を遂行する挑戦はまだ続いている」と、次世代への期待も込めて語る[31]

著書編集

  • 『ザ・ラストマン 日立グループのV字回復を導いた「やり抜く力」』角川書店、2015年

脚注編集

  1. ^ 東京電力ホールディングス株式会社 第93期有価証券報告書
  2. ^ みずほFG「取締役の略歴」
  3. ^ a b 日本経済新聞、2015年5月1日「私の履歴書 日立製作所相談役 川村隆①」
  4. ^ a b 日本経済新聞、2015年5月2日「私の履歴書 日立製作所相談役 川村隆②」
  5. ^ a b c d 北海道新聞、2009年5月1日「<ひと2009>川村隆さん*日立製作所の会長兼社長に就任した道産子」
  6. ^ a b 日本経済新聞、2015年5月3日「私の履歴書 日立製作所相談役 川村隆③」
  7. ^ a b 日本経済新聞、2015年5月4日「私の履歴書 日立製作所相談役 川村隆④」
  8. ^ a b 日本経済新聞、2015年5月6日「私の履歴書 日立製作所相談役 川村隆⑥」
  9. ^ 日本経済新聞、2015年5月9日「私の履歴書 日立製作所相談役 川村隆⑨」
  10. ^ 日本経済新聞、2015年5月8日「私の履歴書 日立製作所相談役 川村隆⑧」
  11. ^ a b 日本経済新聞、2015年5月14日「私の履歴書 日立製作所相談役 川村隆⑭」
  12. ^ a b 日本経済新聞、2015年5月13日「私の履歴書 日立製作所相談役 川村隆⑬」
  13. ^ a b 日本経済新聞、2015年5月15日「私の履歴書 日立製作所相談役 川村隆⑮」
  14. ^ 日本経済新聞、2015年5月16日「私の履歴書 日立製作所相談役 川村隆⑯」
  15. ^ 日本経済新聞、2015年5月17日「私の履歴書 日立製作所相談役 川村隆⑰」
  16. ^ 日本経済新聞、2015年5月18日「私の履歴書 日立製作所相談役 川村隆⑱」
  17. ^ 日本経済新聞、2015年5月20日「私の履歴書 日立製作所相談役 川村隆⑳」
  18. ^ a b c d e f g h i j 北海道新聞、2013年10月3日「<トップの決断>日立製作所会長 川村隆さん(73)*思いも寄らぬ復帰要請 駄目だったら辞める*荒療治 V字回復導く」
  19. ^ 日本経済新聞、2015年5月21日「私の履歴書 日立製作所相談役 川村隆㉑」
  20. ^ 日本経済新聞、2015年5月22日「私の履歴書 日立製作所相談役 川村隆㉒」
  21. ^ 日本経済新聞、2015年5月23日「私の履歴書 日立製作所相談役 川村隆㉓」
  22. ^ 日本経済新聞、2015年5月25日「私の履歴書 日立製作所相談役 川村隆㉕」
  23. ^ 日本経済新聞、2015年5月26日「私の履歴書 日立製作所相談役 川村隆㉖」
  24. ^ a b 日本経済新聞、2015年5月28日「私の履歴書 日立製作所相談役 川村隆㉘」
  25. ^ a b c d 北海道新聞、2014年1月10日「経団連次期会長に榊原氏*本命・川村氏(函館出身)が固辞*慣例破りOB起用*政権との関係修復期待」
  26. ^ a b 北海道新聞、2013年12月30日「経団連人事大詰め*次期会長 川村氏(日立会長、函館出身)も浮上*就任なら道産子初*本人は勇退意向?」
  27. ^ a b 日本経済新聞、2017年3月31日「東電HD会長に日立・川村氏、社長に小早川取締役を発表」
  28. ^ a b 北海道新聞、2017年3月18日「東電次期会長 川村氏に打診 - 日立前会長、函館出身」
  29. ^ 時事通信、2017年4月3日「東電改革「全取締役でチーム」=社外、生え抜き連携-川村次期会長」
  30. ^ 日本経済新聞、2015年5月19日「私の履歴書 日立製作所相談役 川村隆⑲」
  31. ^ 北海道新聞、2014年1月20日「<マーケット&ビジネス トップは語る>競争に勝つ変革続ける*日立製作所の川村隆会長 - 函館市出身」