川連城(かわつれじょう/かわつらじょう)は、栃木県栃木市大平町川連から片柳町にかけてあった日本の城戦国時代から安土桃山時代にかけて築かれた。

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川連城
栃木県
西城側から見る三郭北部の塁
西城側から見る三郭北部の塁
天守構造 なし
築城主 川連仲利
築城年 応仁年間(1467年-1469年
主な城主 川連氏
廃城年 天正18年(1590年
遺構 土塁
指定文化財 史跡等未指定[1]
登録文化財 史跡等未登録[1]
再建造物 なし
位置 北緯36度21分42.934秒 東経139度42分59.613秒 / 北緯36.36192611度 東経139.71655917度 / 36.36192611; 139.71655917座標: 北緯36度21分42.934秒 東経139度42分59.613秒 / 北緯36.36192611度 東経139.71655917度 / 36.36192611; 139.71655917
地図
川連城の位置(栃木県内)
川連城
川連城
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概要

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応仁年間(1467年-1469年)に川連仲利によって築城され、東西180間(約327メートル)、南北260間(約473メートル)もの大規模城郭であったとされる[2]。本丸は川連、北は片柳、西は永野川までで[3]、大部分は片柳に属する[2]。大手門は吉山(現在は川連の小字)に位置した[3]

皆川氏佐野氏の領地が接する要所に位置したため、まず永禄6年(1563年)に皆川俊宗広照親子によって占領され、次いで天正6年(1578年)には佐野氏麾下粟野城主平野大膳の部将・落合徳雲入道に攻められ、城主川連仲重の討死とともにその手に落ち[4]、天正16年(1588年)には粟野落城に際して皆川氏の所有に戻る[5]など、争奪戦が多かった。天正18年(1590年)に皆川城が落ちると、それに伴って廃城となった[6]

 
昭和22年頃米軍空撮とされる川連城跡。中央やや左上にバイパス工事前の川連城が確認できる。また東武線沿い南に本郭、二郭も確認できる。写真中央に東西に延びる建物群は川連宿(例幣使街道)

城の南側には村が形成され、江戸時代には日光例幣使街道富田宿栃木宿をつなぐ中継地点となった。

昭和年間に土地改良や栃木県道11号(例幣使街道)のバイパス工事などにより遺構は一部を除き喪失しているが、川連天満宮境内の土塁、本丸や北の丸の濠などが水田となって残っている[2]

脚注

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  1. ^ a b 「栃木市の文化財一覧」栃木市公式HP
  2. ^ a b c 栃木市史編さん委員会 1978, p. 163.
  3. ^ a b 下野新聞社 1975, p. 256.
  4. ^ 下野新聞社 1975, pp. 256–257.
  5. ^ 下野新聞社 1975, pp. 216, 258.
  6. ^ 下野新聞社 1975, pp. 248, 258.

参考文献

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  • 下野新聞社『栃木の城』下野新聞社、1975年4月20日。 
  • 栃木市史編さん委員会『目で見る栃木市史』栃木市、1978年3月31日。 

関連項目

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