日光例幣使街道
日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)は、江戸時代の脇街道の一つで、徳川家康の没後、東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道である。
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日光例幣使街道・旧道地図 | |
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全体図 江戸時代末期の旧道筋の地図。明治初期に作成された陸軍迅速側図が存在する範囲は、迅速図に基づいて作成。当該図が存在しない佐野周辺および合戦場宿以北は「五街道ウォーク事務局」の『例幣使壬生道完全踏査街道マップ』などを参考にして作成。 |
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概要編集
倉賀野宿を起点とし、中山道と分岐、柴宿、太田宿、栃木宿を経て、楡木(にれぎ)宿で壬生通り(日光西街道)と合流して日光坊中へと至る[1]。楡木より今市(栃木県日光市)までは壬生通り(日光西街道)と重複区間である。
柴宿から北に大胡道が通じ、駒形、大胡を経て、銅山街道の深沢までを結んでいる。境宿・木崎宿間で銅山街道と交差し、太田宿で南に古戸道、北に桐生道が通じている。天明宿から南に館林道が通じ、館林を経て、中山道の鴻巣宿までを結んでいる。
現在、栃木県日光市から鹿沼市、栃木市、佐野市、足利市、群馬県太田市、伊勢崎市、高崎市に至る路線が「日光例幣使街道」または「例幣使街道」と呼ばれている。特に日光市から鹿沼市にかけての区間には日光杉並木が現存する。
例幣使編集
例幣使とは、天皇の代理として、朝廷から神への毎年のささげものを指す例幣を納めに派遣された勅使のことである[2]。例幣使は、中山道と例幣使街道を経て日光に向かい、4月15日に日光に到着したのち、翌朝に東照宮にささげものを納め、そのあとは江戸にまわって将軍に対面してから京都へ帰ることに決まっていた[2]。その例幣使が日光へ詣でるために通ったことから、つけられた呼び名である[2]。
宿場編集
現在の日光例幣使街道編集
現在、以下の栃木県日光市今市から群馬県高崎市倉賀野間の路線が「日光例幣使街道」ないし「例幣使街道」と呼ばれている。
- 国道121号(栃木県日光市今市 - 鹿沼市下材木町)
- 国道293号(鹿沼市下材木町 - 栃木市西方町金崎)
- 栃木県道131号金崎停車場線(栃木市西方町金崎)
- 栃木市道(栃木市西方町金崎 - 栃木市都賀町家中)
- 栃木県道3号宇都宮亀和田栃木線(栃木市都賀町家中 - 栃木市万町)
- 栃木県道11号栃木藤岡線(栃木市万町 - 栃木市岩舟町和泉)
- 群馬県道・栃木県道67号桐生岩舟線(栃木市岩舟町和泉 - 足利市寺岡町)
- 足利市道・佐野市道(足利市寺岡町 - 佐野市新高田橋西)
- 栃木県道・群馬県道128号佐野太田線(佐野市新高田橋西 - 群馬県太田市熊野町)
- 群馬県道・埼玉県道341号太田熊谷線(太田市熊野町 - 太田市東本町十字路)
- 群馬県道2号前橋館林線(太田市東本町十字路 - 太田市大島町)
- 群馬県道312号太田境東線(太田市大島町 - 伊勢崎市境栄)
- 群馬県道142号綿貫篠塚線(伊勢崎市境栄 - 高崎市綿貫町)
- 群馬県道136号綿貫倉賀野停車場線(高崎市綿貫町 - 高崎市倉賀野)
脚注編集
- ^ ロム・インターナショナル(編) 2005, p. 144.
- ^ a b c ロム・インターナショナル(編) 2005, pp. 144–145.
参考文献編集
- ロム・インターナショナル(編)『道路地図 びっくり!博学知識』河出書房新社〈KAWADE夢文庫〉、2005年2月1日。ISBN 4-309-49566-4。