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左悺(さ かん、生年不詳 - 165年)は、後漢宦官本貫河南郡平陰県

経歴編集

桓帝の初年、左悺は小黄門史となった。

ときに梁冀のふたりの妹が順帝と桓帝の皇后となったことから、梁冀が父の梁商に代わって大将軍となり、外戚として権勢を振るっていた。梁冀は太尉李固杜喬らを殺害し、梁皇后も多くの妃嬪を毒殺した。公卿や百官たちは口をつぐむようになり、梁一族の権勢を批判する者はいなくなった。桓帝も内心不満を抱きながら、廃殺を恐れて本心を漏らそうとしなかった。159年延熹2年)7月[1]、梁皇后が死去すると、桓帝は厠に行き、ひそかに唐衡を呼んで梁一族と確執のある側近がいないか訊ねると、唐衡は単超・左悺・徐璜具瑗を推薦した。桓帝は左悺ら5人を呼び出して梁一族の粛清を謀議した。8月、司隷校尉の張彪が梁冀の邸を包囲して梁冀夫妻を自殺させ[1]、単超が梁一族を収監してことごとく処刑した。左悺は中常侍に転じ、上蔡県侯に封じられた。単超・徐璜・具瑗・左悺・唐衡の5人は同日に封を受け、「五侯」と世間で呼ばれた。宦官たちが政権を掌握し、朝廷は乱脈を深めるようになった。

左悺の弟の左敏は陳留太守となり、腐敗官僚として知られた。165年(延熹8年)、桓帝の命により左悺は苦県に派遣され、老子を祠った[1]。司隷校尉の韓演が左悺とその兄の南郷侯左称による収奪の罪を上奏すると、左悺は左称とともに自殺した。

脚注編集

  1. ^ a b c 後漢書』桓帝紀

伝記資料編集