市来半次郎
市来 半次郎(いちき はんじろう、1864年5月8日(元治元年4月3日[1]) - 没年不明)は、明治から大正時代の岡山県および台湾総督府の官僚で台東庁長をつとめた。
いちき はんじろう 市来 半次郎 | |
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生誕 |
白坂 半次郎 元治元年4月3日 (1864年5月8日) 日本 大隅国姶良郡帖佐村 (現)鹿児島県姶良市) |
死没 | 不詳 |
時代 | 明治、大正 |
雇用者 | 岡山県、台湾総督府 |
活動拠点 | 日本、台湾 |
肩書き |
岡山県警部 台湾総督府警視 台東庁長 |
子供 |
(長男)市来 備一郎 (次男)市来 吉至 |
親戚 | 伊丹松雄(次男の妻の父) |
家族 | (兄)白坂 恵一郎 |
栄誉 |
勲八等瑞宝章 勲七等瑞宝章 勲六等瑞宝章 勲五等瑞宝章 勲四等瑞宝章 勲三等瑞宝章 |
経歴
編集元治元年4月3日、大隅国姶良郡帖佐村(現鹿児島県姶良市)出身。岡山県にて巡査となり警部に進む。その後領有したばかりの台湾に渡り、台湾総督府の雇員となり。その後は警察関係にすすみ警視となり、台中、苗栗、台北で勤務した。1916年(大正5年)11月に台東庁長に就任し、1924年(大正13年)12月退官した。その後、故郷に帰り、帖佐村議会議員、村会議長をつとめるが[2]、のちの消息は不明である。三男二女をもうけるが、次男の吉至は、東京帝国大学を卒業し台湾総督府に勤務した。次女は高雄警察署長をつとめた下川静一に嫁いだ[3]。
親族
編集栄典
編集位階
- 従七位 明治40年7月20日[11]。
- 正七位 明治43年12月20日[12]。
- 従六位 大正2年11月30日[13]。
- 正六位 大正6年4月30日[14]。
- 従五位 大正9年11月10日[15]。
- 正五位 大正14年1月15日[16]。
勲章等
- 勲八等瑞宝章 明治33年2月9日[17]。
- 勲七等瑞宝章 明治37年8月22日[18]。
- 勲六等瑞宝章 明治41年6月25日[19]。
- 勲五等瑞宝章 大正3年6月29日[20]。
- 勲四等瑞宝章 大正4年2月10日[21]。
- 勲三等瑞宝章 大正12年3月24日[22]。
- 明治二十七八年従軍記章 明治28年11月18日[1]。
脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j k l 「廳警視市來半次郎廳主事ニ任用ノ件(廃案)」総督府公文類纂,國史館文献館(台湾)
- ^ 『地方発達と其人物』,郷土研究会,1938年、p.1062
- ^ a b 宮川次郎 著『新台湾の人々』,拓殖通信社,1926年,p.462
- ^ 人事興信所編,「人事興信録 5版」,人事興信所,1918年,p.い90
- ^ 『台湾総督府報』第1153号「叙任及辞令」大正5年11月15日
- ^ 『台湾総督府報』第3406号「叙任及辞令」大正13年12月18日
- ^ 『職員録』明治38年(乙),印刷局,1905年,p.504
- ^ 有川天涙編『帖佐村郷土誌』,帖佐村教育会,1933年,p.317
- ^ 台湾総督府編『台湾総督府及所属官署職員録』昭和10年7月1日現在,台湾時報発行所,1935年.p.130
- ^ 帝国秘密探偵社 1943, 海外3頁.
- ^ 『台湾総督府報』第2243号「叙任及辞令」明治40年7月30日
- ^ 『台湾総督府報』第3124号「叙任」明治43年12月20日
- ^ 『台湾総督府報』第367号「叙任及辞令」大正2年11月30日
- ^ 『台湾総督府報』第1282号「叙任及辞令」大正6年5月8日
- ^ 『台湾総督府報』第2249号「叙任及辞令」大正9年11月18日
- ^ 『台湾総督府報』第3431号「叙任及辞令」大正14年1月24日
- ^ 『台湾総督府報』第981号「叙任及辞令」明治34年7月4日
- ^ 『台湾総督府報』第15711号「辞令」明治37年9月7日
- ^ 『台湾総督府報』第2469号「叙任及辞令」明治41年7月7日
- ^ 『台湾総督府報』第530号「叙任及辞令」大正3年7月6日
- ^ 『台湾総督府報』第776号「叙任及辞令」大正4年6月19日
- ^ 『台湾総督府報』第2916号「叙任及辞令」大正12年4月11日
参考文献
編集- 橋本白水『評論台湾之官民』南国出版協会、1924年 。
- 帝国秘密探偵社 編『大衆人事録 第14版 外地・満支・海外篇』帝国秘密探偵社、1943年 。