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沿革編集

古事記』の国産み神話においては、筑紫島(九州)の4面に筑紫国豊国肥国熊曽国が見える[1]

古代の南九州は『古事記』『日本書紀』の「日向神話」と呼ばれる神話の舞台となった[2]。この中で、アマテラスの孫のニニギが高千穂に降臨し(天孫降臨)、子のホオリが兄・ホデリを懲らしめた旨とともに兄の子孫の隼人が今も天皇に仕える由来だと述べ(山幸彦と海幸彦)、ホオリの子・ウガヤフキアエズは初代天皇・カムヤマトイワレビコ(神武天皇)の父である旨を記している。のち、神武天皇は日向から東征に赴くこととなる(神武東征)。

現在、これらの日向神話は歴史的事実そのままとは考えられておらず、その由来には諸説がある。特に『古事記』『日本書紀』が成立するまで、すなわち7世紀後半から8世紀前半の南九州における対隼人の政治情勢との密接な関係が指摘される[2]。隼人が名を表すのは天武天皇の時代からで、7世紀末から8世紀前期に4回の反乱を起こしている[2]。そして天皇家による南九州における統治を正当化し、隼人が服属すべき理由を過去にさかのぼって説明するものと考えられている[3]

7世紀中期以降に律令制の成立に伴って、現在の鹿児島県の本土部分と宮崎県を含む広域に、日向国が成立した[4]

大宝2年(702年)8月1日の薩摩・多褹叛乱を契機に、同年、日向国を割いて唱更国多褹国として分立した。

その流れの中で和銅6年(713年)4月3日、日向国肝杯郡囎唹郡大隅郡姶羅郡の四郡、現在の鹿児島県本土の東部が大隅国として分立したのが、大隅国の始まりとされる。

数年の内に、囎唹郡を割いて桑原郡(姶良郡湧水町周辺)が、天平勝宝7年(755年)にさらに囎唹郡を割いて菱苅郡(現在の伊佐市周辺)が設けられ、六郡となる。

天長元年(824年)10月1日に、現在の屋久島種子島にあたる多禰国をあわせた。この際、四郡あった多禰国の郡は二郡に統合され、結果大隅国は八郡となる。

平安時代には荘園の進展で姶羅郡(現在の鹿屋市周辺。現在の姶良郡は別)がその実を失い、肝属郡に編入されたとみられる。

明治12年(1879年)、奄美群島大島郡)を編入した[5]。明治30年(1897年)には、現在の三島村十島村地域が薩摩国川辺郡から大島郡に編入された[6]

概要編集

令制国が成立する以前は襲国(そのくに)とも呼ばれた熊襲(球磨囎唹と訓が当てられ、そのまま囎唹郡と繋がる)の本拠地であり、後にも薩摩と並んで隼人の抵抗が最後まで根強く続いた地で、日向からの分立及び隼人の根拠地であった囎唹郡の分割は、隼人勢力の弱体化を意図して行われた[7]。薩摩国衙のある高城郡に肥前から移民が行われたのと同様に、大隅国衙の置かれた桑原郡には豊前から移民が行われるなど対隼人政策が取られている。

当時はそのような隼人首長の大隅直(あたい)、曾君(そのきみ)、加士伎県主(かしきあがたぬし)、肝衝(きもつき)といった豪族が割拠した[8][9]

養老4年(720年)に隼人は大隅守陽侯史麻呂を殺害し律令国家の支配に対して反乱を起こした。大和朝廷は大伴旅人を征隼人持節大将軍に任命し、この抵抗を鎮圧する。この反乱を受けて囎唹郡はさらに分割され隼人の管理は徹底された。その結果、奈良時代中期から後期には大隅の支配は安定し、延暦19年(800年)には他地域同様に班田制も導入され、律令制による支配が定着した。

しかし、隼人の同化が進んだ一方で平安中期には南島人が侵入してきたり、一方で寛弘4年(1007年)大隅守菅野重忠が太宰府府官大蔵満高に射殺され、長元2年(1029年)にはこれも太宰府大監で島津荘の開発者であった平季基が大隅国衙を焼討し、国衙支配が壊滅的打撃を受けるなど管轄内の諸国に対する介入の度合いを強める太宰府との激しい対立があり、その背景には南島との交易利権の管掌が絡んでいた[10][注 1]

こうした情勢の中で、それまで国の中心となる神社であった鹿児島神宮八幡神を勧請して、九州五所別宮となる正八幡宮が成立している[7][12]

平季基は賄賂を駆使し、また藤原頼通に島津荘を寄進することで身の安泰を図り特段処罰を受けることもなく現地に住み着いたので、さらなる領域拡張を続け国衙領を削り取る島津荘とそれに対抗して正八幡宮の権威を活用する大隅国衙との対立関係は続き、国土は実質的に島津荘と正八幡宮領に二分されていった。

近世以降の沿革編集

国内の施設編集

国府編集

 
大隅国府跡碑
鹿児島県霧島市の推定地)

国府は『色葉字類抄』によると、桑原郡。『拾芥抄』および易林本の『節用集』では、贈於郡とある。

現在の霧島市国分府中にあったと推測されているが、遺跡はまだ見つかっていない。

国分寺・国分尼寺編集

 
大隅国分寺跡
(鹿児島県霧島市)
大隅国分寺跡
鹿児島県霧島市国分中央。

神社編集

延喜式内社
延喜式神名帳』には、以下に示す大社1座1社・小社4座4社の計5座5社が記載されている(「大隅国の式内社一覧」参照)。大社1社は名神大社ではない。
総社一宮以下

安国寺利生塔編集

  • 安国寺 - 鹿児島県姶良市加治木町反土。

地域編集

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  • 囎唹郡 - 湾の北東部。日向に隣接。
  • 桑原郡 - 囎唹郡より分置。北端。日向・薩摩に隣接。
  • 菱苅郡 - 囎唹郡より分置。西北端。
  • 姶羅郡 - 湾の北西端。薩摩に隣接。
  • 肝属郡 - 半島中部。日向に隣接。
  • 大隅郡 - 半島最南端
  • 熊毛郡 - 種子島。多褹国から併合。
  • 馭謨郡 - 屋久島。多褹国から併合。

江戸時代の藩編集

人物編集

国司編集

守護編集

鎌倉幕府編集

室町幕府編集

戦国大名編集

武家官位としての大隅守編集

江戸期以前編集

江戸時代編集

脚注編集

注釈編集

  1. ^ 大蔵氏は加治木郷を開発して勢力を扶植しており、重忠の殺害も満高の父種材の指示によるものであった。重忠殺害事件は藤原道長の裁定で犯人不明とされ、満高は大宰大弐藤原高遠の庇護により事件後特に処分されることもなかったが、二十四年後に皇族僭称と重忠殺害の科でようやく罰された。[11]

出典編集

  1. ^ 『古事記』神代記。
  2. ^ a b c 『日本歴史地名体系 宮崎県の地名』(平凡社)p. 27。
  3. ^ 『日本歴史地名体系 宮崎県の地名』(平凡社)p. 28。
  4. ^ 『続日本紀』巻第2、大宝2年8月丙申(1日)条、10月丁酉(3日)条。新日本古典文学大系『続日本紀』一の58-61頁。
  5. ^ 明治12年4月8日太政大臣三条実美通達
  6. ^   鹿兒島縣下國界竝郡界變更及郡廢置法律
  7. ^ a b c 日隈正守 「大隅国における建久図田帳体制の成立過程
  8. ^ 『鹿兒島縣史』 第一巻/第二編 國造時代/第四章 國造縣主の設置と諸豪族
  9. ^ 竹森友子 「南島と隼人 -文武4年覓国使剽劫事件の歴史的背景-」 『人間文化研究科年報 Vol.22』pp.69-84
  10. ^ 日隈正守 「島津荘に関する一考察 : 成立期を中心に
  11. ^ 日隈正守 「大隅守菅野重忠殺害事件の背景に関する一考察
  12. ^ 鹿児島県歴史資料センター 黎明館 『黎明だより』 『黎明 vol.34 No.2』 2016年8月1日

参考文献編集

関連項目編集

外部リンク編集