常山城(つねやまじょう)は、岡山県岡山市南区迫川と玉野市宇藤木・用吉・木目にまたがる標高300メートルの常山山頂にあった日本の城山城[3]。岡山市指定史跡および玉野市指定史跡[1][2]

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常山城
岡山県
常山全景
常山全景
城郭構造 連郭式山城
天守構造 なし
築城主 上野氏
築城年 文明年間(1469年1486年
主な城主 上野氏、戸川秀安伊岐真利
廃城年 慶長8年(1603年
遺構 曲輪、石塁、空堀、井戸
指定文化財 岡山市指定史跡[1]
玉野市指定史跡[2]
位置 北緯34度31分29.82秒 東経133度53分12.22秒 / 北緯34.5249500度 東経133.8867278度 / 34.5249500; 133.8867278 (常山城)座標: 北緯34度31分29.82秒 東経133度53分12.22秒 / 北緯34.5249500度 東経133.8867278度 / 34.5249500; 133.8867278 (常山城)
地図
常山城の位置(岡山県内)
常山城
常山城
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女軍の墓

概要

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常山城は文明年間(1469年1486年)に備中戦国大名三村氏の姻戚である上野氏によって築かれたとされるが、詳細については不明である。以後、備中上野氏の居城となった。

上野肥前守隆徳が、備中上野氏最後の当主となった。天正3年(1575年毛利氏により攻撃を受けた三村氏一族最後の居城が常山城であり、常山城は毛利氏の軍勢に取り囲まれ上野隆徳は城内で自害したが、上野隆徳の妻である鶴姫は、武家に生まれた女としての信念を貫き、城内の侍女三十余名を率い、城外の毛利軍に突撃した。鶴姫は毛利軍の武将である乃美宗勝一騎討ちを挑むが、乃美宗勝はそれを拒否し、思わぬ奇襲に乱れた軍を建て直した。鶴姫は再度城内に戻り、自害した。

豊臣時代には宇喜多秀家の所領となり、戸川秀安が城主となった。山麓には秀安の墓と位牌所・友林堂(友林は秀安の)がある。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い宇喜多氏改易となり、小早川秀秋が当地の領主となるとその家臣の伊岐真利が城主となった。慶長8年(1603年)小早川秀秋が病死し改易となると、池田忠継の所領となり忠継はこの城を廃城とした。

現在、常山には現存しておらず、城跡として案内されている。また山頂付近には、鶴姫や侍女たちを祀る墓が34基あり、『女軍の墓』として紹介されている。

城跡は、玉野市側が1964年(昭和39年)6月25日に[2]、岡山市側が2010年(平成22年)7月27日に各々の指定史跡となっている[1]

現地情報

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常山山頂からは児島湖児島湾から岡山市街地までを見渡せ、晴れたときには瀬戸大橋も見えるなど景観はとてもよい。登山道・車道も整備されており、頂上まで登ることが可能。

最寄駅

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脚注

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  1. ^ a b c 「岡山市文化財目録」岡山市公式HP
  2. ^ a b c 「玉野市の文化財-玉野市文化財地図-」玉野市公式HP
  3. ^ 「常山城跡」岡山県古代吉備文化財センター公式HP

参考文献

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  • 岡山県高等学校教育研究会社会科部会歴史分科会 編『新版 岡山県の歴史散歩』山川出版社〈新全国歴史散歩シリーズ〉、1991年、104頁。ISBN 4-634-29330-7 
  • 西ヶ谷恭弘 編『定本 日本城郭事典』秋田書店、2000年、310頁。ISBN 4-253-00375-3 
  • 現地説明板

関連項目

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外部リンク

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