広海軍工廠(ひろかいぐんこうしょう)は、日本海軍の主に航空機開発を担った軍需工場(工廠)である。後に航空機部は第11海軍航空廠として独立し、太平洋戦争末期には第11空廠に統合された。

1924年呉市都市計画図
1924年呉市都市計画図
1945年呉市戦災概況図。
1945年呉市戦災概況図。
1945年にアメリカ軍が作成した広地区地図。
1945年にアメリカ軍が作成した広地区地図。

沿革 編集

1921年1月15日、広島県賀茂郡広村(現、呉市)に呉海軍工廠広支廠として開設された。第一次世界大戦後の航空兵力の増強に対応するのが目的であった。当初は、航空機部、造機部、機関研究部、会計部が置かれた。

1923年4月1日、広海軍工廠として独立し、総務部、会計部、医務部、航空機部、造機部、機関研究部が置かれた。航空機部と機関研究部は、当時、他の海軍工廠には存在していなかった。1932年横須賀鎮守府に海軍航空工廠(後の「海軍航空技術廠」)が設置され、海軍の航空機研究・実験部門を集約していくこととなった。1935年4月5日、機関研究部が廃止された。1939年8月1日、罐を除く蒸気機関とその材料の実験を担う機関実験部、そして工作機械実験部を新設した。1942年4月1日、鋳物実験部を設置した。

1941年10月1日に航空機部が独立して、第11海軍航空廠が設置された。太平洋戦争中も生産は拡大していくが、戦局の悪化に伴い、工場疎開が検討されたが、米軍機の空襲を受けるようになり、1945年5月5日の集中爆撃により壊滅的な被害を受け、6月26日に廃止となり第11空廠に吸収された。

跡地のうち大部分は1951年より東洋パルプ(後の王子製紙)の製紙工場となり、現在は王子マテリア呉工場となっている。

年譜 編集

  • 1921年1月15日 呉海軍工廠広支廠開庁
  • 1923年4月1日 広海軍工廠設置
  • 1930年8月20日 阿賀と工廠間を結ぶ従業員輸送船が130人を乗せたまま転覆。死者4人[1]
  • 1935年4月5日 機関研究部廃止
  • 1939年8月1日 機関実験部・工作機械実験部設置
  • 1941年10月1日 航空機部が独立、第11海軍航空廠設置
  • 1942年4月1日 鋳物実験部設置
  • 1945年5月5日 空襲により壊滅的損害
    • 6月26日 廃止され第11空廠に吸収

歴代工廠長 編集

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。

  • 宮崎虎吉 機関少将:1923年8月13日 - 1925年4月1日
  • 河合俊太郎 少将:1925年4月1日 - 1926年12月1日
  • 小倉嘉明 少将:1926年12月1日 - 1927年3月25日
  • 上田良武 少将:1927年3月25日 - 12月1日
  • 黒田琢磨 少将:1927年12月1日 - 1929年11月30日
  • 伊藤孝次 造機中将:1929年11月30日 - 1930年12月1日
  • 臼井国 少将:1930年12月1日 - 1931年12月1日
  • 小野徳三郎 少将:1931年12月1日 - 1932年11月15日
  • 豊田貞次郎 少将:1932年11月15日 - 1934年5月10日
  • 山下兼満 少将:1934年5月10日 - 1935年11月15日
  • 広瀬正経 中将:1939年11月15日 - 1940年10月1日
  • 渋谷隆太郎 少将:1940年10月1日 - 1941年11月20日

試作航空機 編集

脚注 編集

  1. ^ 『呉市史 第5巻』pp.245 昭和63年3月31日 呉市史編纂委員会編

参考文献 編集

関連項目 編集