健御名方富命彦神別神社

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健御名方富命彦神別神社(たけみなかたとみのみことひこかみわけじんじゃ)は、『延喜式神名帳に記載されている信濃国水内郡式内社名神大社)。

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概要

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延喜式神名帳には信濃国水内郡に「健御名方富命彦神別神社 名神大」と記載されたが、その後所在がわからなくなっている。次の3社が論社とされているが、現在に至っても比定の決着はついていない。

文献では、持統天皇5年(691年)に天皇の命で信濃国に「水内神」を祀らせたとする記述[1]があり、これが文献上初見とされる。『延喜式』神名帳に「水内神」の記載はないが、健御名方富命彦神別神社が水内郡唯一の大社であることから、この「水内神」は健御名方富命彦神別神社を指すと考えられている。

祭神

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社名の通り「健御名方富命彦神別神」を祀る社とされる。この神の解釈は各社で異なる。

  • 建御名方命同神説
    諏訪大社祭神の「建御名方命」と同一視する説。
  • 建御名方命の御子神説
    「健御名方富命」に「彦神別」を重ねた感があることから、建御名方命の御子神とみる説[2]。諏訪大社では、下社摂社の若宮社に「建御名方彦神別命」として祀られる。
  • 「健御名方富命」と「彦神別神」の2神説
    「健御名方富命彦神別神」とは2神を表すとし、「健御名方富命」は建御名方命、「彦神別神」はその御子神と見る説(例:妻科神社)。

比定

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1は、善光寺東方の丘上に鎮座するが、明治11年(1878年)までは善光寺境内にあり「年神堂八幡宮」と称していた。延文元年(1356年)成立の『諏方大明神画詞』では、「年神堂が諏訪大社の分座であり持統天皇5年に記載のある水内神である」としている[3]。また、江戸時代末期の『芋井三宝記』には「年神堂八幡宮は、風祭等の存在からして御年神でなく健御名方富命彦神別神社であり、当地に善光寺如来が来たため仏式になって神名を失い、八幡宮とも誤り称されるようになった」と記している[4]。当地は科野国造金刺氏の居住地で水内郡の中心地と考えられ、善光寺の位置からは善光寺平が望めることから古社の所在地としてふさわしいと考えられている[2]。なお、善光寺の大本願境内にあった斎藤神官家に諏訪社があったとされ、これが式内社後身とする説もある[2]

2は、現在も地名として残る大字「水内」に鎮座し「水内神」とも称されていた。主祭神は彦神別命で、建御名方神の御子神としている。

3は、飯山盆地の縁に鎮座するが、飯山盆地は古くは「水内海」という名の湖だったと言い伝えている。祭神には健御名方富命のほかに庭津女命麻背命八須良雄命知奴命沙南豆良姫命武彦根命といった独特の神(彦神別命の御子神とされる)を祀り、当地を支配した氏族との関係が見られる。

脚注

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  1. ^ 『日本書紀』持統天皇5年8月23日条。
  2. ^ a b c 『日本の神々』健御名方富命彦神別神社(長野市長野)項。
  3. ^ 『諏方大明神画詞』抜粋「本国水内ノ郡善光寺別社ノ事、日本紀第卅ニハ持統天皇五年遣勅使祭諏方・水内神等ト見タリ、又延喜神祇式ニハ諏方郡南方刀美神社二座、水内郡健御名方田富彦神別神社ト云ヘリ、当社ノ分座疑ナシ、是則当郡善光寺郭内ノ当社ナリ」(『長野県の地名』健御名方富命彦神別神社項より)。
  4. ^ 『日本歴史地名体系 長野県の地名』(平凡社)長野市 健御名方富命彦神別神社項。

参考文献

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  • 小林計一郎「健御名方富命彦神別神社(長野市長野)」、斎藤武雄「健御名方富命彦神別神社(飯山市五束)」(谷川健一 編『日本の神々 -神社と聖地- 9 美濃 飛騨 信濃』(白水社))

外部リンク

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