張禧

モンゴル帝国に仕えた漢人将軍

張 禧(ちょう き、? - ?)は、モンゴル帝国に仕えた漢人将軍の一人。日本遠征(弘安の役)にも従軍したが、配下の船団に損害を受けることなく帰還したことから、江南軍の主立った諸将の中で唯一処罰を受けなかったことなどで知られる。

概要 編集

張禧の先祖は東安州に居住していたが、父の張仁義は金末に益都に移住し、更にモンゴルの侵攻を受けて信安に移住した人物であった。信安は周辺諸城がモンゴルの攻撃によって陥落する中で長く抵抗を続けた城の一つで、城主は張仁義の勇敢さ、知謀を見込んで側近に抜擢した。モンゴル軍が信安を包囲した時、張仁義は死士300を率いて出戦しモンゴル軍を撃退することに成功したため、武功により軍馬総管に任命された。張仁義は十数年に渡って信安を守ったものの、最後には追い詰められて城主とともにモンゴルに降った。その後は配下の兵とともに宗王率いるモンゴル軍に加わり、河南一帯の平定に従事して管軍元帥の地位を授けられた。更に帰徳城の包囲にも加わったが、包囲戦中に矢が口に入り、歯を2本折って頭頂を突き抜けたことで亡くなった[1]

張禧は16歳の時から大将アジュルとともに徐州・帰徳攻めに従事し、また元帥チャガンとともに寿春・安豊・廬州・滁州・黄州・泗州の諸城を攻略して武功を挙げた。しかし峻烈な性格の張禧は同僚から疎まれ、誣告を受けて息子の張弘鋼とともに罪人にされかけた。この時、張禧はクビライの側近であった王鶚に頼り、王鶚の門人であったココの助けにより張禧と張弘鋼は釈放された[2]

1259年己未)にはクビライ率いる部隊に加わって南宋領に侵攻し、緒戦では敵将を一人捕虜とする武功を挙げた。その後の鄂州包囲戦では南宋軍の奮戦に苦戦を強いられたため、決死隊が募られ、これに張禧と張弘綱の父子が応じた。張禧父子は東南から城内に入り、張禧は途中で槍を受けて負傷するも張弘鋼が奮戦して城の東南隅を破った。戦後、クビライは張禧父子の奮戦を称賛して治療を命じ、その後も大将納剌忽とともに金口・李家洲などの戦いで活躍した[3]

中統元年(1260年)にクビライが即位すると、金符を与えられ、新軍千戸の地位を授けられた。中統3年(1262年)には李璮の乱討伐に従事し、これに乗じて出兵してきた南宋の夏貴率いる軍団を破り、奪われた蘄県・宿州を奪取した。至元元年(1264年)には唐鄧等州盧氏保甲丁壮軍総管に昇格となり、南宋軍の侵攻によって均州総管の李玉山が敗走するとその後任に充てられた。至元3年(1266年)、南宋の将呂文煥と高頭赤山で戦い、勝利して均州を奪い返した。至元4年(1267年)には水軍総管に任命され、2,500の兵を率いて水戦に習熟させた。至元5年(1268年)からは襄陽城の包囲に加わり、至元6年(1269年)7月には襄陽の救援のため進軍してきた夏貴率いる南宋軍をアジュとともに破った。至元8年(1271年)には長江で洪水が起こったため、これを好機と見た范文虎が戦艦1千余りを率いて接近し、張禧に撃退が命じられた。張禧は夜間密かに南宋軍の陣営付近の水深を測り、戦闘が始まると巧みに浅瀬に追い込むことで戦艦70隻余りを拿捕することに成功した。また至元9年(1272年)の戦闘では南宋の将張貴を鹿門山で破る功績を挙げている[4]

至元10年(1273年)に襄陽城を陥落させるための策が諸将に問われた時、張禧は「襄陽・樊城は漢江に挟まれているが、 南宋兵が鉄鎖を渡し木柵を水中に置くことで侵入を阻んでいます。鉄鎖や木柵を壊した上で兵糧の搬入を絶てばまず樊城が陥落し、樊城が陥落すれば自ずと裏陽城も陥落するでしょう」と進言したという。この策が採用された結果、張禧の進言通りまず樊城が陥落し、ついで襄陽城が陥落したため、功績により宣武将軍・水軍万戸に任命された。至元11年(1274年)よりバヤンを総司令とする南宋領侵攻が始まると、張禧はバヤンより水軍を率いて先鋒を務めるよう命じられた。至元12年(1275年)、モンゴル軍は南宋軍の主力部隊と丁家洲で激突し(丁家洲の戦い)、張禧は孫虎臣率いる部隊を撃破した。同年9月にはアジュとともに南宋の都統姜才を破り、この功績により信武将軍の地位を授けられた。至元13年(1276年)には続けて温州・台州・福建一帯を平定し、1277年(至元14年)に入り懐遠大将軍・江陰路達魯花赤・水軍万戸に任じられた。至元16年(1279年)には南宋征服がひと段落したため、入朝して昭勇大将軍・招討使の地位を授けられた[5]

至元17年(1280年)、張禧は鎮国上将軍・都元帥とされたが、当時朝廷では日本出兵(弘安の役)が検討されており、張禧は自らこれに従軍することを申し出た。そこで朝廷は張禧を行中書省平章政事に任じ、張禧は右丞范文虎・左丞李庭らとともに水軍を率いて海路より日本へと侵攻した。日本に到着した張禧は船を棄てて平湖島(平戸島)に上陸して塁を築き、また艦船を風浪に備えて五十歩の間隔で停泊させた[6]。同年8月、台風により范文虎・李庭らの船団は大損害を被ったが、風雨の対策をしていた張禧の船団のみが損害を免れた[7]。ここで諸将の間で戦闘を続行するか否かの議論が行われ、張禧は「士卒の溺死する者は半ばに及び、死を免れた者は皆壮士ばかりである。[生き残った壮士たちに]回顧の心がないことに乗じ、食糧を敵から奪い、もって進戦すべきである」と継戦を主張したが、范文虎は「帰朝した際に罪に問われた時は、私がこれに当たる。公(張禧)は私と共に罪に問われることはあるまい」と述べて撤退を主張した[8][9]。結局、張禧は范文虎の意見を受け容れ、自らの船団を范文虎らに分け与えることで撤退を開始した。張禧の船団だけでは平湖島に残る兵4千全て載せるには不足していたが、張禧は「彼等を棄てるに忍びない」と述べ、船中の馬70匹を全て棄てることで全兵を連れ帰った。日本遠征軍の諸将がクビライの下に至ると、范文虎らは皆罪を得たが、張禧のみが罪を免れた[10]

脚注 編集

  1. ^ 『元史』巻165列伝52張禧伝,「張禧、東安州人。父仁義、金末徙家益都。及太宗下山東、仁義乃走信安。時燕薊已下、独信安猶為金守、其主将知仁義勇而有謀、用之左右。国兵囲信安、仁義率敢死士三百、開門出戦、囲解、以功署軍馬総管。守信安踰十年、度不能支、乃与主将挙城内附。率其部曲従宗王合丑平定河南、授管軍元帥。後攻帰徳、飛矢入口、折其二齒、鏃出項後、卒、賜爵県侯」
  2. ^ 『元史』巻165列伝52張禧伝,「禧年十六、従大将阿朮魯南攻徐州・帰徳、復従元帥察罕攻寿春・安豊・廬・滁・黄・泗諸州、皆有功。禧素峭直、為主将所忌、誣以他罪、欲置之法。時王鶚侍世祖於潜邸、禧密往依之、鶚請左丞闊闊薦禧与其子弘綱俱入見」
  3. ^ 『元史』巻165列伝52張禧伝,「歳己未、従世祖南伐、済江、与宋兵始接戦、即擒其一将。進攻鄂州、諸軍穴城以入、宋樹柵為夾城於内、入戦者輒不利、乃命以厚賞募敢死士。禧与子弘綱俱応募、由城東南入戦、将至城下、帝憫其父子俱入險地、遣阿里海牙諭禧父子、止一人進戦。禧所執槍、中弩矢而折、取弘綱槍以入、破城東南角。有逗留不進者十餘人、立城下、弘綱復奪其槍入。転戦良久、禧身中十八矢、一矢鏃貫腹、悶絶復甦、曰『得血竭飲之、血出可生』。世祖亟命取血竭、遣人往療之。瘡既愈、復従大将納剌忽与宋兵戦于金口・李家洲、皆捷」
  4. ^ 『元史』巻165列伝52張禧伝,「世祖即位、賜金符、授新軍千戸。三年、従征李璮。時宋乗璮叛、遣夏貴襲取蘄県・宿州等城、禧移兵攻之、貴走、尽復諸城。至元元年、陞唐鄧等州盧氏保甲丁壮軍総管。宋侵均州、総管李玉山敗走、帝命禧代之。三年、与宋将呂文煥戦于高頭赤山、乗勝復均州。四年、改水軍総管、益其軍二千五百、令習水戦。五年、従攻襄樊。六年七月、夏貴率兵援襄陽、禧従元帥阿朮戦、却之。八年、江水暴溢、宋遣范文虎以戦艦千餘艘来援。元帥阿朮命禧率軽舟、夜銜枚入其陣中、插葦以識水之深淺。及還、阿朮即命禧率四翼水軍進戦、宋兵潰、追至淺水、奪戦艦七十餘艘。九年、攻樊城、焚其串樓、敗宋将張貴于鹿門山」
  5. ^ 『元史』巻165列伝52張禧伝,「十年、行省集諸将問破襄陽之策、禧言『襄・樊夾漢江而城、敵人橫鉄鎖・置木橛于水中、今断鎖毀橛、以絶其援、則樊城必下。樊城下、則襄陽可図矣』。行省用其計、乃破樊城、而襄陽継降、帝遣使錄諸将功、授宣武将軍・水軍万戸、佩金虎符、丞相伯顔因命禧為水軍先鋒。十二年、敗宋将孫虎臣于丁家洲、尋移屯黄池、以断宋救兵。九月、従阿朮与宋都統姜才戦、有功、加信武将軍。十三年、従下温・台・福建。十四年、加懐遠大将軍・江陰路達魯花赤・水軍万戸。十六年、入朝、進昭勇大将軍・招討使」
  6. ^ 太田1997,122頁
  7. ^ 太田1997,126頁
  8. ^ 太田1997,44頁
  9. ^ 太田1997,145-146頁
  10. ^ 『元史』巻165列伝52張禧伝,「十七年、加鎮国上将軍・都元帥。時朝廷議征日本、禧請行、即日拝行中書省平章政事、与右丞范文虎・左丞李庭同率舟師、泛海東征。至日本、禧即捨舟、築塁平湖島、約束戦艦、各相去五十步止泊、以避風濤觸擊。八月、颶風大作、文虎・庭戦艦悉壞、禧所部独完。文虎等議還、禧曰『士卒溺死者半、其脱死者、皆壮士也、曷若乗其無回顧心、因糧於敵以進戦』。文虎等不従、曰『還朝問罪、我輩当之、公不与也』。禧乃分船与之。時平湖島屯兵四千、乏舟、禧曰『我安忍棄之』。遂悉棄舟中所有馬七十匹、以済其還。至京師、文虎等皆獲罪、禧独免。子弘綱」

参考文献 編集

  • 太田弘毅『蒙古襲来―その軍事史的研究』錦正社、1997年
  • 元史』巻165列伝52張禧伝
  • 新元史』巻166列伝63張禧伝