彝泰
彝泰(いたい、チベット語: skyid rtag、「長楽」の意味)は吐蕃においてティツク・デツェン王(可黎可足賛普)の治世で使用されたとされる年号の漢訳。現在吐蕃で使用が確認されている唯一の年号である。815年 - 838年?[1]。
概要
編集その存在は『新唐書吐蕃伝』及び「唐蕃会盟碑」を典拠としているが、吐蕃は漢文を常用しておらず、暦法における位置づけと用法は中国とは異なっていたことが予想される。「彝泰」はティツク・デツェン王の王名の漢訳(彝泰賛普)としても用いられること、陳寅恪など中国の学者は考証に当たって年号使用の末年を王の在位の末年と同一視していることから、中国式の元号ではなく、王の在位中の改元を想定しない在位紀年(後世の一世一元の制に近い)である可能性もある。
西暦・干支との対照表
編集彝泰 | 元年 | 2年 | 3年 | 4年 | 5年 | 6年 | 7年 | 8年 | 9年 | 10年 |
西暦 | 815年 | 816年 | 817年 | 818年 | 819年 | 820年 | 821年 | 822年 | 823年 | 824年 |
干支 | 乙未 | 丙申 | 丁酉 | 戊戌 | 己亥 | 庚子 | 辛丑 | 壬寅 | 癸卯 | 甲辰 |
彝泰 | 11年 | 12年 | 13年 | 14年 | 15年 | 16年 | 17年 | 18年 | 19年 | 20年 |
西暦 | 825年 | 826年 | 827年 | 828年 | 829年 | 830年 | 831年 | 832年 | 833年 | 834年 |
干支 | 乙巳 | 丙午 | 丁未 | 戊申 | 己酉 | 庚戌 | 辛亥 | 壬子 | 癸丑 | 甲寅 |
彝泰 | 21年 | 22年 | 23年 | 24年 | ||||||
西暦 | 835年 | 836年 | 837年 | 838年 | ||||||
干支 | 乙卯 | 丙辰 | 丁巳 | 戊午 |
他元号との対照表
編集彝泰 | 元年 | 2年 | 3年 | 4年 | 5年 | 6年 | 7年 | 8年 | 9年 | 10年 |
唐 | 元和10 | 元和11 | 元和12 | 元和13 | 元和14 | 元和15 | 長慶元 | 長慶2 | 長慶3 | 長慶4 |
彝泰 | 11年 | 12年 | 13年 | 14年 | 15年 | 16年 | 17年 | 18年 | 19年 | 20年 |
唐 | 宝暦元 | 宝暦2 | 宝暦3 大和元 |
大和2 | 大和3 | 大和4 | 大和5 | 大和6 | 大和7 | 大和8 |
彝泰 | 21年 | 22年 | 23年 | 24年 | ||||||
唐 | 大和9 | 開成元 | 開成2 | 開成3 |
出典
編集- 新唐書巻216下 列伝第141下 吐蕃下
- (憲宗元和)十二年、賛普死、(中略)可黎可足立為賛普。(中略、穆宗長慶二年)元鼎還、虜元帥尚塔蔵館客大夏川、集東方節度諸将百餘、置盟策臺上、偏暁之、且戒各保境、毋相暴犯。策署彝泰七年。(紀年の対応はすべて考証によって否定されている)
脚注
編集- ^ 現存する唯一の同時代史料である「唐蕃会盟碑」では「彝泰7年」「8年」「9年」の使用が確認されている。
参考文献
編集- 陳寅恪「吐蕃彝泰賛普名号年代攷」『国立中央研究院歴史語言研究所集刊』第2本第1分(北平(北京):国立中央研究院歴史語言研究所、1930年5月)1 - 5ページ(中国語)。
- 張怡蓀主編『蔵漢大辞典(上)』(北京:民族出版社、1993年12月)ISBN 7-105-02036-9 146ページ(チベット語・中国語)。
- 李崇智 『中国歴代年号考 修訂本』(北京:中華書局、2001年1月) ISBN 7101025129 114 - 115ページ(中国語)。
関連項目
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前の元号 不明 |
吐蕃の元号 | 次の元号 不明 |