徐 遠(じょ えん、生年不詳 - 570年)は、東魏から北斉にかけての官僚は彦遐。本貫広寧郡石門県[1][2]

経歴 編集

徐遠の祖先は広平郡の出身で、曾祖父の徐定が北魏の雲中軍将・平朔戍主となって朔州に邸を構えたため移り住んだ。徐遠は若くして官吏仕事を覚えて、広寧郡に功曹として召された。しばらくして、太守とともに高歓に帰順し、防城都督となり、廮陶県令に任ぜられた。高歓に召し出されて丞相騎兵参軍事となり、征戦のあるたびに軍務の書記方をつとめた。後に鉅鹿郡太守・陳留郡太守を歴任した。天保元年(550年)、北斉が建国されると、御史による弾劾を受け、2年後に赦免された。文宣帝は徐遠の旧勲により、領軍府長史として任用した。東徐州刺史として転出し、後に呼び戻されて太中大夫となった。河清元年(562年)、衛将軍の号を加えられた。河清2年(563年)、使持節・都督東楚州諸軍事・東楚州刺史に任ぜられた。その年の冬、東楚州の城邑で大火があり、城内の民衆は財産と生業を失ったが、徐遠が自ら救援と再建にあたったため、治安も安定して民衆に慕われた。天統2年(566年)、儀同三司衛尉の位を受けた。天統4年(568年)、開府儀同三司・右光禄大夫となった。武平元年(570年)、死去した[1][2]

長男の徐世栄は、中書舎人・黄門侍郎となった[1]

脚注 編集

  1. ^ a b c 北斉書 1972, p. 363.
  2. ^ a b 北史 1974, p. 1996.

伝記資料 編集

参考文献 編集

  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4