御陵村
日本の鳥取県岩美郡にあった村
御陵村(みささぎそん[1][2])は、鳥取県岩美郡にあった自治体である。「ごりょうそん」とも言った[1]。1896年(明治29年)3月31日までは法美郡に属した。
みささぎそん 御陵村 | |
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廃止日 | 1907年4月1日 |
廃止理由 |
新設合併 国府村、法美村、御陵村 → 宇倍野村 |
現在の自治体 | 鳥取市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 中国地方(山陰地方) |
都道府県 | 鳥取県 |
郡 | 岩美郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
隣接自治体 |
国府村、法美村、登儀村 八頭郡中私都村、下私都村 |
御陵村役場 | |
所在地 | 鳥取県岩美郡御陵村大字岡益村25番次1番屋敷 |
座標 | 北緯35度27分16秒 東経134度17分45秒 / 北緯35.454481度 東経134.2959度座標: 北緯35度27分16秒 東経134度17分45秒 / 北緯35.454481度 東経134.2959度 |
特記事項 | 村役場は現在の岡益集会所付近に所在した |
ウィキプロジェクト |
概要
編集現在の鳥取市(旧国府町)のうち、国府町広西・国府町玉鉾・国府町岡益・国府町清水・国府町山根に相当する。袋川中流左岸の沖積地に位置した。
村名は岡益の石堂が安徳天皇御陵墓の伝承があることにちなむ[1]。
藩政時代には鳥取藩領の法美郡広西郷(ひろせのごう、広瀬郷とも)に属する広西村・玉鉾村、登儀郷(とぎのごう)に属する岡益村・清水村・山根村があった[3]。
岡益(おかます)は「岡が増す」、つまり丘陵地形(岡が重なり合ったところ)に由来すると考えられる。古くは「丘益」と書いたが、「丘」では石堂の丘陵に通じ村名としては紛らわしいという理由で「岡」に改められたと因幡志には記されている[3]。
広西(ひろせ)は広瀬とも書き、袋川の流れが広い瀬となった所にできた村であることから広瀬となったと考えられる[3]。
山根(やまね)は山裾にできた村とされる[3]。
玉鉾(たまぼこ)は伊邪那美神に美の象徴である「玉」を、大穴牟遅神に国土平定の武の象徴である「鉾」をあてて玉鉾神社と言ったことにちなむとされる[3]。
清水(すんず)は古くは「澄水」と書き、山裾から湧く2箇所の清水によって付けられた名だとされる。読みが「すみみず」から「すんず」に変化し、同義語の清水を当てたのではないかと考えられる[3]。
沿革
編集- 1881年(明治14年)9月12日 - 鳥取県再置。
- 1883年(明治16年) - 宮下村(後の国府村大字宮下村)に置かれた連合戸長役場の管轄区域となる。ただし山根村のみ中河原村(後の登儀村大字中河原村)の管轄区域となる[4]。
- 1889年(明治22年)10月1日 - 町村制施行により、広西村・玉鉾村・岡益村・清水村・山根村が合併して村制施行し、御陵村が発足。旧村名を継承した5大字を編成し、役場を玉鉾村に設置[5]。
- 1893年(明治26年)1月31日 - 役場位置を大字岡益村25番次1番屋敷に変更[6]。
- 1896年(明治29年)4月1日 - 郡制の施行により、邑美郡・法美郡・岩井郡の区域をもって岩美郡が発足し、岩美郡御陵村となる。
- 1907年(明治40年)4月1日 - 国府村・法美村と合併して宇倍野村が発足。同日御陵村廃止[3]。
行政
編集歴代村長
編集氏名 | 在職 | 備考 |
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足達貞一 | 1896年(明治29年) | [7] |
前田恒造 | 1899年(明治32年) - 1902年(明治35年) | [8] |
定久国蔵 | 1903年(明治36年) - 1904年(明治37年) | [9]、後に宇倍野村長に就任 |
西尾幸太郎 | 1905年(明治38年) - 1906年(明治39年) | [10] |
教育
編集交通
編集脚注
編集- ^ a b c 角川日本地名大辞典 鳥取県「御陵村(近代)」
- ^ 鳥取県史 近代 第1巻 (総説篇)830頁(鳥取県、1969年)
- ^ a b c d e f g h i 国府町誌(国府町誌編さん・編集委員会、1987年)、改訂 国府町誌(改訂国府町誌編纂・編集委員会、2004年)
- ^ 府県管轄区域郡区町村名集覧(樋口文治郎、1888年)
- ^ 鳥取県改正市町村名及役場区域 明治22年10月改正(横山敬次郎、1889年)
- ^ 『官報』1893年2月23日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 鳥取県職員録 明治29年4月現在(鳥取県、1896年)
- ^ 職員録 明治32年(乙)、職員録 明治33年(乙)、職員録 明治34年(乙)、職員録 明治35年(乙)
- ^ 職員録 明治36年(乙)、職員録 明治37年(乙)
- ^ 職員録 明治38年(乙)、職員録 明治39年(乙)