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悲惨な戦い」(ひさんなたたかい)は、日本シンガーソングライターで、当時は「なぎらけんいち」と名乗っていたなぎら健壱の楽曲。作詞・作曲者名は「なぎらけんいち」と表記される[1]

悲惨な戦い
なぎらけんいちシングル
B面 一九七三年の思い出
リリース
規格 シングル
ジャンル フォークコミックソング
レーベル エレック
作詞・作曲 なぎらけんいち
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1973年エレックレコードからシングルがリリースされ、B面には「一九七三年の思い出」が収録された。ジャケットのイラストレーションも、なぎら自身によるものであった。このシングルは、当時15万枚を売り上げたとされる[2]

歌詞の内容は、国技館からテレビ中継していた大相撲の取り組み中に力士廻しが落ちる(不浄負け)という、架空のハプニングの顛末を語ったコミカルなものであったが、日本相撲協会のクレームもあったとされ[2]要注意歌謡曲指定制度によりAランク指定(放送禁止)の扱いになったとされる[3][4]。ただし、1999年フジテレビの『NONFIX』で放送されたドキュメンタリー放送禁止歌[1]におけるインタビューで、なぎらは、レコーディング中も多少の不安はあったが予想外にヒットしてスケジュールも決まっている矢先に放送禁止に指定されたが、実際には相撲協会からのクレームはなく、その前に民放連が自主規制したとみられると話し[5]、結局言葉に罪はなく使う人の意識問題だとした[6]。このインタビューの中でなぎらは、言及されている力士の四股名のうち、「若秩父」は若秩父高明を意識して創作したことを述べているが、「雷電」は20世紀にはこの名の力士がおらず、歌詞に出てくる「弟子の朝潮」についても、若秩父と活動時期が重なる朝潮太郎 (3代)は若秩父より年長で所属する部屋も異なっており、該当する者はいない。

『新・悲惨な戦い』も含めて要注意歌謡曲指定制度が失効する1988年まで放送禁止となるAランクに指定され続けたが[7]森達也はどれだけ贔屓目に見ても選曲や判断のバランスが悪く本作が指定されるなら他にも同じ扱いをされる作品もあるはずだと疑問を呈し、2000年前後にはそれを聞いても答えられる人は制度の主体である民放連にはもういないと返答されているが、それぞれの楽曲を審議する人間が思考停止に陥っていたのではないかと考え、何かのはずみで残り続け担当者の引き継ぎが行われても考察をせずそのまま申し送りすることが繰り返された可能性を指摘している[8]

森達也が1990年代に本曲を流している有線放送のディレクターに取材すると放送禁止に指定された事実は知っているが使用しているのは禁止されたスタジオ録音盤ではなくライブ音源であり、ライブでは歌詞にある「NHK」を「イヌHK」と発音しているため放送していると言われ、森も「かえって失礼では」と聞くと「そういうものなんですよ」と返され森はなるほどとなったが、有線放送は民放連非加盟なため通達や規制を受けないことをお互い認識していなかった[9]

脚注編集

  1. ^ a b NONFIX 過去に放送した番組 放送禁止歌~唄っているのは誰? 規制するのは誰?~ 1999年11月6日(土)”. フジテレビ. 2016年6月3日閲覧。
  2. ^ a b 宇佐美伸 (2006年9月24日). “[不屈のひみつ]まず自分が楽しまなきゃ フォークシンガー・なぎら健壱さん”. 読売新聞・東京朝刊: p. 2. "大相撲での架空のハプニングをネタにした『悲惨な戦い』は、15万枚を売りながら相撲協会側のクレームで放送禁止になった。"  - ヨミダス歴史館にて閲覧
  3. ^ 深津純子 (2006年9月24日). 朝日新聞・朝刊: p. 10. "高田渡の「自衛隊に入ろう」、なぎら健壱の「悲惨な戦い」、岡林信康の「チューリップのアップリケ」「手紙」……。フォーク世代には懐かしい歌が、テレビやラジオから消えて久しい。... 規制の根拠とみられた民放連の「要注意歌謡曲指定制度」は、拘束力のないガイドラインにすぎなかった。"  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  4. ^ 吉野健三『歌謡曲 流行らせのメカニズム』晩聲社 (ヤゲンブラ選書) 、1978年、244頁(同書113頁に1978年9月5日時点のものと記載)。
  5. ^ 森達也『放送禁止歌』光文社知恵の森文庫、2003年 39-42頁 ISBN 9784334782252
  6. ^ 森達也『放送禁止歌』43頁
  7. ^ 森達也『放送禁止歌』70-71頁
  8. ^ 森達也『放送禁止歌』108頁
  9. ^ 森達也『放送禁止歌』111-112頁