戸田忠延
戸田 忠延(とだ ただのぶ)は、江戸時代後期の大名。下野宇都宮藩主。宇都宮藩戸田家9代。
戸田忠延の墓(合葬墓碑) | |
時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 寛政2年6月12日(1790年7月23日) |
死没 | 文政6年2月26日(1823年4月7日) |
改名 | 鉄之丞(幼名) |
戒名 | 天寿院殿前従五位下日州大守祥山常雲大居士 |
墓所 |
栃木県宇都宮市の英巌寺 東京都中野区上高田の松源寺 |
官位 | 従五位下、日向守 |
幕府 | 江戸時代 |
藩 | 下野国宇都宮藩主 |
氏族 | 戸田氏 |
父母 | 父:戸田忠翰、母:松平忠順の娘・結子 |
兄弟 | 忠延、岡部忠直、忠温 |
妻 |
正室:有馬頼貴の娘・庭子 側室:百合 |
子 | 錬輔、養子:忠温 |
略歴
編集寛政2年(1790年)6月12日、先代藩主戸田忠翰の次男として生まれる。文化3年(1806年)12月16日に従五位下・日向守に叙位・任官する。文化8年(1811年)4月21日に父が隠居したのにともない家督を継いだ[1]。就任直後に延享4年(1747年)から文化6年(1809年)までに褒美を受けた157人の善行を記した善行録を作り、農業精出者や実直者、貞節者、潔白者、孝心者が取り上げられた[1]。また、藩財政再建のために家臣の給金・給米の削減、貸付金や扶持米の前渡しを禁止した[1]。農村の荒廃と天災のため、幕府に様々な嘆願をしたが効果はなく、もともと病身だったため心労が重なった[2]。
忠延は藩財政再建に全力を注ぎ、自らと財政で意見の異なる家臣の2人を追放し、その2人が江戸や宇都宮の10里四方に立ち入ったら斬殺してもよいと命じたという話も伝わっている[3]。『戸田御家記』では忠延の生涯で経済立て直しと領地引替え以外に事跡が出てこないことをもって知るべし、とあり、2人の追放でも相当に激しい対立があったが、財政再建にはあまり成果を上げられなかった[3]。
系譜
編集父母
正室
- 庭子 - 有馬頼貴の娘
側室
- 百合
子女
養子
- 戸田忠温 - 忠翰の五男
脚注
編集参考文献
編集- 坂本俊夫『宇都宮藩・高徳藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2011年9月。