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扶南
50/68年 - 550年 真臘
扶南の位置
1 - 9世紀の地図:
驃国(Sri Ksetra)ドヴァーラヴァティー/扶南(Fou-Nan)/チャンパ
公用語 古クメール語、サンスクリット語
首都 バーヴァプラ
元首等
480年 - 514年 ジャワルマン1世
変遷
建国 50/68年
真臘の属国となる550年

扶南国(ふなんこく)は、1世紀から7世紀にかけてメコン川下流域(現在のカンボジアベトナム南部)からチャオプラヤーデルタにかけて栄えたヒンドゥー教仏教(5世紀以降)の古代国家。

歴史編集

扶南の起源編集

3世紀頃の南京にあったの官僚の報告書に同時代の東南アジアの国家が出ている。しかし、扶南という名称は出ておらず、当時の現地人がどのような名前で国を呼んでいたかは明らかではない。後述する民族についての考察からも、1世紀頃にオーストロネシア系が扶南をたてたとする説が有力である。629年に完成した梁書によれば、扶南をたてた人物は「徼」(マレー半島かインドネシアの島と言われている)から来た外国人「混塡」(Kaundinya I)である。混塡は土地の女王「柳葉」(Queen Soma)と結婚し、その子供に王権を与えると、その子供は七つの町[1]を作ったと伝えられている。同様の話は晉書にも伝えられている。4世紀頃からチャンパ王国ミーソン聖域の建設が開始され、扶南滅亡後の658年の日付で同様の話が記録されている。

インドシナ半島では1世紀ころからインド文化が伝わり、扶南もその文化的影響を強く受けていた。ヒンドゥー教が伝わると官僚として多くのインド人が採用され、サンスクリット語が法律用語として使われた。

扶南はインド・中国間の海上交易ルートの中継地として大いに栄え、とりわけタイランド湾に面した外港オケオには交易による商品と後背地からの様々な産物が集積され、活況を呈していたと考えられている。

扶南の滅亡編集

550年から628年にかけて、扶南と真臘の間に戦争があった。550年頃、扶南は真臘を属国としていた。

628年に真臘のイシャーナヴァルマン1世フランス語版が扶南を占領し、滅亡した。

民族編集

扶南をたてた民族については、従来クメール系と考えられていたが、近年ではオーストロネシア系ともされる。

中国史書による記録編集

梁書卷五十四 列傳第四十八 諸夷のなかに記載されている。以下、原文を記し、適宜解説する。


同伝には、頓遜國、毘騫國などと並んで記述されている。


脚注編集

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  1. ^ 柳葉と混塡をナーガの伝説をなぞらえた話。

関連項目編集

外部リンク編集