チャンパ王国
Chăm Pa
192年 - 1832年 阮朝
チャンパの位置
チャンパ国の領域
公用語 チャム語サンスクリット
首都 インドラプラ英語版(875-978)
ヴィジャヤ英語版(978-1398)
バン・パンラン(1433-)
バン・チャナン(1485-1832)
国王
192年 - ??? 区連
変遷
漢からの独立 192年
大南帝国(越南阮朝)に併合される1832年
チャンパの遺跡「Dương Longの塔」。ベトナム、ビンディン省タイソン県にて
ベトナムの歴史
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(甌雒国)
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チャンパ王国ベトナム語: Chăm Pa / 占婆192年 - 1832年[1] は、ベトナム中部沿海地方(北中部及び南中部を合わせた地域)に存在したオーストロネシア語族を中心とする王国。その主要住民の「古チャム人」は今日のベトナム中部南端に住むチャム族の直接の祖先とされる。中国では代まで林邑と呼び、一時環王国と自称したが、代以降は占城と呼んだ。

歴史編集

サフィン文化編集

考古学の知見によれば、紀元前の数世紀にベトナム中部北端では青銅器に代表されるドンソン文化が栄えたが、中部沿海・中部南端では、クアンガイ省サフイン地域(広義省沙黄地域)を中心に、鉄器が中心のサフィン文化英語版紀元前1000年 - 200年、沙黄文化)が広がっていた。サフィン文化の遺跡から発見される遺物には台湾フィリピンタイ西部と共通するものが多く、マレー系海洋民族である古チャム人(チャンパ人)の遺構ではないかとされる。チャンパ王国の歴史は中国史料、サンスクリット碑文、チャンパ碑文、チャム写本(チャム語チャム文字のものと漢文のもの、まれにクノムのものがある)に記録されている。チャム語はオーストロネシア語族のひとつで、現在のチャミック(チャム諸語)の一つで、アチェ語に近いとされる(チャム語とアチェ語の近似性は学術的にはいまだ検証されていない)。

林邑国とヒンドゥー文明編集

中国史料によれば、西暦192年の最南端の日南郡象林県(北中部、現フエ付近)で功曹という官吏であった区連という者が叛乱を起こし、日南境外の蛮夷を糾合して林邑国ベトナム語版を建てた。日南郡を滅ぼした林邑国は、中国南朝・隋・唐に朝貢を繰り返し当初は中国文化の影響を受けていたが、隣国の扶南とともに4世紀以降に中国文明と並行してヒンドゥー文明を受容し、その文字は「夷字」「崑崙書」(いずれも梵字を指す)と伝えられる。林邑と扶南の主要住民の言語はマレー・ポリネシア語系の古チャム語または古マレー語であり、林邑は古チャム語リウー(椰子)、扶南は古チャム語プナンまたはパナン(檳榔)に由来し、チャンパ南部においては檳榔族という氏族名は現在でも見られる(特にラグライ族)。林邑・扶南以後、ジャワ(ヤヴァ、大麦)、マジャパヒト(苦梨)など、古代~中世の東南アジアの国名の多くが植物トーテムに基づく。なお、隋の侵攻以前(2世紀末~7世紀初め)の林邑においては、梵字碑文のようなヒンドゥー化の証拠となる遺物は、年代について議論が続くカインホア省ヴォカイン地域(慶和省武競地域)出土のヴォカイン碑文を除き、発見されていない。中国経由で日本に渡来した林邑僧仏哲が伝えたチャンパの舞踊は林邑楽として今日まで雅楽の中に伝承されている。

チャンパ王国の勃興編集

隋の侵攻後、再興された林邑において、はじめてチャンパープラ、チャンパーナガラ(占城、占婆城などと訳される)梵語国号を記した梵語碑文が現れる。古チャム碑文も梵語碑文と共に大量に作成された。一部の碑文に古マレー語的な要素がみられる(dariなどの用法)。ミーソン聖域に現存する碑文によれば、真臘(カーンボージャ)、占城(チャム、チャンパーナガラ、再興林邑)の両王家は共に『マハーバーラタ』に描かれたクルクシェートラの戦い英語版で敗れたインドのカウラヴァクル族)側で生き残った武将不死の呪いを受けて世界中をさまよっているアシュヴァッターマン王子の子孫である。

チャンパは占婆花即ち黄花プルメリアマグノリア(キハナ)の意であり、カンボジアと同様にかつて北インドにあった国家、都市の名前である。ヴィジャヤ王朝時代の碑文によれば、チャンパの国号とその都名は同一(チャンパーナガラまたはナガラチャンパー)であり、同時代の中国史料でも占城国の都は佔であると記されている。なお、チャム写本では国号はナガルチャム(現代チャム語ではナ→ヌ、ガル→カンとなるのでカタカナ表記では「ヌカンチャム」)である。また『続日本紀』に見える遣唐使判官、平群広成8世紀に漂流した「崑崙国」は、チャンパ王国と考証されている。

ヴィジャヤ王朝成立と大越との抗争編集

中国は代までおおむね現在のベトナム北部を領有しており、チャンパ王国はしばしばこれを略奪し、また南朝・の侵攻を受けた。10世紀にベトナム北部の紅河流域を中心にベト族大越国を建てると、チャンパ王ポーアウロハ(大越史記全書では占城国王氷王羅)は都をウリク地方(現ダナンクアンナム省)から南中部の南端のシュリーバヌーイ地方(現クアンガイ省ビンディン省、シュリーヴィナーヤカ、ヴィジャヤの外港としてしばしば碑文に現れる)に移したとされる(占城ヴィジャヤ王朝)。現存するチャム写本『チャム王家年代記』はこの遷都の年(西暦1000年ごろ)を建国の年とする。11世紀以降、ヴィジャヤ王朝はベトナム北部の大越及びカンボジアの真臘・アンコール朝としばしば戦争を行った。一時はアンコール朝に占領されたこともあり、アンコール遺跡には有名なチャンパ人兵士を描いたとされる(検証はされていない)の浮彫が残されている。

ヴィジャヤ王朝は13世紀にはクビライの侵攻(モンゴルのベトナム侵攻英語版元越戦争とも)を受けた。このころにはマルコ・ポーロなど南海を航海したヨーロッパ人の記録にもチャンパ王国が登場する。元寇撃退の過程で陳興道ら大越陳朝の軍勢と連携(白藤江の戦い)したチャンパ王ジャヤ・シンハヴァルマン3世(制旻)は、和平後に陳仁宗の皇女(陳英宗の妹)玄珍公主ベトナム語版を娶り、大越・チャンパの蜜月時代を醸成して、域内平和に貢献した。しかし、花嫁代償としてジャヤ・シンハヴァルマン3世(制旻)が大越に北中部ウリク地方英語版(里州:現クアンビン省クアンチ省トゥアティエン=フエ省)を割譲したことは、将来に領土紛争の禍根を残した。

明の侵攻と2つのチャンパの分裂編集

ジャヤ・シンハヴァルマン3世(制旻)の死後は大越・チャンパの抗争が再燃し、チャンパ王制蓬峩Chế Bồng Nga)は大越陳朝の都昇龍を2回にわたり劫掠し、陳睿宗が敗死して陳朝の権威が失墜すると、胡季犛により帝位を簒奪され大虞胡朝が建設された。1390年にはチャンパ王制蓬峩も羅皚(在位:1390年 - 1400年)が胡朝に内通する裏切りで死去し帝位が簒奪された。この混乱期のチャンパ王国に、1391年からティムール朝の首都サマルカンド出身のスーフィーマウラナ・マリク・イブラヒーム英語版が訪れ、羅皚の娘のDewi Candrawulan[2]と結婚した。1400年、羅皚が死去すると巴的吏がチャンパ王の帝位についた。このころ、チャンパはヴィジャヤ朝(チャバン朝)とパーンドゥランガ朝(バン・アグイ朝、のちのバン・パンラン朝、バン・チャナン朝)の2つにわかれたと考えられる。バン・アグイ朝の系譜だけを記す「チャム王家年代記」では、バン・アグイ朝は1398年にジャーク(Jhak、おそらくヴィジャヤ朝)によって首都バン・アグイ(Bal Anguei)を失い、1433年まで「空位時代」となる。一方、ヴィジャヤ朝は1402年、胡朝二世皇帝(胡漢蒼)が逆襲してチャンパの都の闍槃(チャバン)を失い、巴的吏が明に救援を求めたため、両国の抗争は永楽帝の干渉戦争(明胡戦争英語版、明・大虞戦争)を招くところとなり、1404年にマウラナ・マリク・イブラヒームはジャワ島マジャパヒト王国に亡命し、その一族はワリ・サンガと呼ばれるようになった。1407年までに大虞胡朝は滅亡。1407年-1427年第四次北属時期英語版1408年に巴的吏は明の鄭和艦隊の訪問をクイニョンで受け歓待している。鄭和はマジャパヒト王国スラバヤへも寄港している。ヴィジャヤ朝は再興されて1471年まで存続した。

1418年-1428年藍山蜂起。大越黎朝(黎初朝)の黎利による明軍撃退後、チャンパは南中部のヴィジャヤ王朝英語版(占城・闍槃:現クアンガイ省、ビンディン省)と中部南端のパーンドゥランガ王朝ベトナム語版(賓童龍・藩龍:現ニントゥアン省ビントゥアン省)に分裂する形で2つのチャンパが並立した。チャム写本の『チャム王家年代記』は1433年に再興されたパーンドゥランガ王朝(バン・アグイ朝及びバン・パンラン朝、バン・チャナン朝)の系譜だけを記している。ヴィジャヤ王朝は1471年黎聖宗の親征によって首都チャバンを失った崩壊し(en:1471 Vietnamese invasion of Champa)、その故地であったアマラーヴァティー州、ヴィジャヤ州は大越に併合され、チャンパ王国の正統は中部南端のパーンドゥランガ王朝に移った。この時、ヴィジャヤ王槃羅茶全が、彼の息子シャー・パウ・リン(後のアリ・ムハヤット・シャー英語版)をアチェの統治へと送り出したのがアチェ王国の始まりである。

ヴィジャヤ王朝の崩壊とその後の旧ウリク州編集

ヴィジャヤ王朝の北端であったウリク地方(烏里州)は、1306年に大越国に割譲されて以後、烏州・里州と漢字表記され、更に順化州(順州・化州)と改称、分割された。現在のベトナム語地名フエは化州(フエチャウ、ホアチャウ)に由来する。『烏州近録』(楊文安撰、1543年、現存のものは18世紀 - 19世紀に大幅に加筆)によれば、旧ウリク州には、もともとここに住んでいたチャム貴族に加えて、チャンパ国内の政争に敗れた貴族層が続々と亡命した。土里人(里州土着民)と呼ばれたチャム系の貴族・住民は陳朝に重用されて忠義を尽くし、胡朝の簒奪や明のベトナム侵略に際しては潘猛ら陳朝恩顧の土里人土豪が激しく抵抗した。土里人の名家であるチェー家(制氏)は今もフエの東に住む。

大越黎朝(黎中興朝)がヴィジャヤ王朝を滅ぼしてチャンパの領土の五分の四が大越に併合され、今のベトナム中部全域を支配すると、順化州(旧ウリク州)はその中部行政の中心となったが、中部南端の五分の一=パーンドゥランガ(藩籠)朝は「大占国」として存続した。ヴィジャヤ朝の滅亡から半世紀後には黎朝はチャンパ征服後まもなく簒奪により莫氏に取って代わられた(1530年)。黎朝恩顧の重臣たち・鄭氏と阮氏は通婚するなど協力しながら莫朝大越からの国土回復を進めていた連合による抵抗を受けて内戦状態に陥っていた(南北朝時代)。やがて、のちに鄭氏と阮氏の間に内紛を起こし隙ができると、阮氏の若い跡取りの阮潢(仙王、太祖)は半ば追われるように旧ウリク州に南下し半独立政権を立てた。

阮氏政権とパーンドゥランガ王朝の征服編集

旧ウリク州に成立した阮氏政権を、黎朝の漢文史料は南河国と呼び、中国の明・広南国と呼び、チャム族はウリク国と呼び、史家は広南阮氏と呼ぶ。広南阮氏は形式上は1774年の滅亡まで黎朝の家臣であり、南河国は正式には大越国(黎中興朝)の南半分である(北半分の北河国は別の大貴族の鄭氏が支配)。

広南阮氏は1611年以後南進してパーンドゥランガ王朝の領土を急速に侵食し、1693年に広南阮氏明王の武将阮有鏡がバン・パンランを攻略して順城鎮と改称した。順城鎮は広南に併合されていったん自治を失ったが、間もなくチャム人貴族のオクニャ・ダット(屋牙撻)が清国人である阿班(日本の『華夷変態』に収録されたチャム人海難者の陳述もまたこの人物を羅宇すなわち華人(チャム語Laow)とする)の加勢を得てパーンドゥランガ駐留阮軍を各地で撃破し、包囲した。明王はカンボジア駐留阮軍を呼び戻してチャム軍を打ち破るとともに軍事圧力を加えつつ講和を図り、阿班の排除を条件として1694年末にチャム王家のポーシャクティライ・ダ・パティー(継婆子)によるパーンドゥランガ朝の王家再興を認めた。また、明王は1712年に順城鎭との間に議定五条を結び、パンラン道(潘郎道、いまニントゥアン省ファンラン)、クロン道(龍郷道、いまビントゥアン省トゥイフォン県リエンフオン市鎮)、パリク道(潘里道、いまビントゥアン省バクビン県)、パジャイ道(舗諧道、いまハムトゥアンバク県、ハムトゥアンナム県、ファンティエト市、ラギ市(ラジ市)、ハムタン県)の四つの道におけるチャム王の広範な自治権を認めた。

順城鎮のチャム人自治とその終焉編集

広南阮氏は1760年代に政治が乱れ、1773年西山県で西山阮氏(西山朝)が興った。1774年、広南阮氏は南下してきた鄭氏(鄭氏東京国)と北上してきた西山阮氏に挟撃されて都のフエを落とされ、一旦滅亡した。1777年以後、生き残りの王子阮福暎(後の嘉隆帝)が広南阮氏の再興のための兵を募り、1802年まで広南阮氏と西山阮氏の間で凄惨な内戦が続いた。1794年以後、順城鎮のチャム人貴族は阮福暎に仕えて西山阮氏討伐で活躍する武将チェイクレイブレイ(阮文召)、ポーラドゥワン・ダ・パグー(阮文豪)、ポーチョンチョン(阮文振)、ポークラントゥー(阮文永)らを輩出した。

越南阮朝初期には嘉隆帝の厚遇を得て順城鎮による自治は最盛期を迎え、順城鎮掌奇(チャム王)は中部高原南方の山岳民族をことごとく支配下に置いた。しかし、1832年明命帝の中央集権化方針により順城鎮(パーンドゥランガ王朝)は遂に断絶され、旧王ポーフォクトゥー(阮文承)は黎文𠐤(レ・ヴァン・コイ)の乱(南部大反乱)に連座した廉で極刑(凌遅)に処された。自治回復を求める貴族と山岳民族の蜂起(羅奔王の乱)も1835年までに鎮圧された。

貿易編集

古チャム人は優れた航海技術を持ち、占城国及びその南隣の属国パーンドゥランガ(賓童龍国)は交易国家としても繁栄した。中国に来航するイスラム商船にとってチャンパ・パーンドゥランガは重要な寄港地であり、チャンパ産の沈香朱印船貿易においても重要な交易品目であった。正倉院に所蔵されている香木蘭奢待は、9世紀頃チャンパから日本に持ち込まれたと考えられ、徳川家康がチャンパ王に宛てた沈香を求める信書も残っている。また、14世紀から15世紀に掛けて交易国家として繁栄した琉球王国はチャンパと通好関係があった(『歴代宝案』)。

17世紀前半に活躍した日本の朱印船はしばしばチャンパを渡航先に選んでいるが、これはチャンパの物産が目的というより、は日本船の来航を禁止していたため中国商船との出会い貿易の場として朱印船貿易に利用されたためである。

パーンドゥランガは属国とはいえ固有の王(檳榔族)を戴いていた。また、その国号は白蓮を意味すると同時に占城・真臘両王家の祖先であるクル族に敵対したパーンドゥ族を意味し、真臘・占城・大越・広南の侵略をよく防いで、1832年まで自治を貫徹した。

遺跡編集

インド文化を受容したチャンパではレンガ造りのヒンドゥー寺院や仏教寺院が建立された。世界遺産になったフォンニャ洞ミーソン聖域を始め、チャキエウ城(茶蕎故城)、ドンズオン仏院(桐楊古塔)など、中部沿海・中部南端・中部高原など中部全域にチャンパ遺跡(占城古塔)が分布し、ドンナイ川上流のカッティエン聖域(バタウリンカ聖域、ラムドン省)もチャンパ遺跡と考えられる。中部沿海のチャンパ遺跡は廃墟であるが、中部高原のヤンプロン塔、ヤンムム塔などの遺跡は近代までジャライ族の重要な祭祀の場であった。また、チャム族、ラグライ族(山地チャム人)が多く暮らしている中部南端では、カインホア省ニャチャン市内のポーヌガル塔(天依阿那祠)、ニントゥアン省ファンラン郊外のポーロメ塔(厚生古塔)、ポークロンガライ塔(得仁古塔)、ヤンバクラン塔(和来古塔)、ビントゥアン省ファンリ郊外のポーダム塔(楽治古塔)、ファンティエト市内のポーシャーヌー塔(舗諧古塔)などのチャンパ遺跡で現在もヒンドゥーとイスラームが習合した祭祀が続けられている。

研究編集

南中部のクアンナム省に残るヒンドゥー教遺跡ミーソンは、20世紀初め以来フランス極東学院 (EFEO) のパルマンチェやクレイ、ポーランド文化財保護アトリエ (PKZ) のカジミエシュ・クヴィアトコフスキらにより修復、保存、補強工事が続けられ、1999年、「ミーソン聖域」としてユネスコ世界遺産に登録された。2005年には日本の国際協力機構の技術協力でミーソン遺跡展示館が作られた。チャンパ王国の歴史研究は仏領インドシナ時代にフランス人学者によって先鞭がつけられ、エーモニエ、カバトン、デューラン、ミュスによる写本研究、フィノー、マジュムダール、クロード・ジャック、石澤良昭による碑文研究がなされ、マスペロ、オルソー、馮承鈞、杉本直治郎、山本達郎による中国史料研究がなされた。現在は、フランス極東学院のポーダルマー(チャム人)を中心に、パリ外国宣教会のムセー(インドネシア・ミナンカバウ教区神父)、ベトナム国内のタイン・ファン(ホーチミン市大学人類学講師、チャム人)、サカヤー(ニントゥアン省チャム文化研究センター研究員、チャム人)によりチャム写本の保存・共有事業が進められている。

その他編集

  • 中国人が記録したチャンパの伝承で、飛頭蛮という首が伸びて頭を飛ばす民族に関するものがある。これは江戸時代の日本に伝わりろくろ首の話になったと言われている。全く同じ伝説がカンボジアにも存在する。

脚注編集

  1. ^ 一般的には「チャンパ」であるが、専門家の間では「チャンパー」としている。『東南アジアを知る事典』278頁
  2. ^ 後にドゥマク王国でen:Dewi Sriにちなんで呼ばれたインドネシア名。チャンパ王国での名前は不明。

関連項目編集

外部リンク編集